#Tokyo2020 について・その2

 東京オリンピックの閉会式が今日行われ、8月24日からはパラリンピックが始まる。

 今日(8/8)までに、日本は金27個、銀14個、銅17個の計58個のメダルを獲得し、一方で東京都内の感染者数は、開会式当日の7月23日に1359人、7月27日に2800人を超えてからは、1日3000〜4000人の間で推移し、陽性率も7月23日には12.9%、以降徐々に増加し、八月に入ってからは20%前後と高い数値を示している(参考 https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp)。

 パンデミックは災害と言ってよい。その最中に、オリンピックという「ショー」が開催されている。

 

 もし、オリンピックが平和の祭典であり、オリンピック憲章(https://www.joc.or.jp/olympism/charter/pdf/olympiccharter2020.pdf)にあるような差別の撤廃、人間の尊厳の保持、倫理規範の尊重を基盤とする大会であるとしたら、東京オリンピックは失敗であると言えるだろう。

 開会式の演出メンバーからMIKIKO氏が排除され、佐々木宏氏が指揮をとった。佐々木氏の案には容姿を揶揄するようなものもあり、問題となった。組織委員会前会長である森喜朗氏は、「女性が入っている会議は時間がかかる(皆張り切って発言しようとするから)」と発言し、辞任となった。さらに、森氏は聖火リレーの最終ランナーに「『純粋な』日本人」なるものを望んでいたと報道された。

 ウガンダ代表のセチトレコ選手は、日本への亡命を希望していたが受け入れられず、一方でベラルーシ代表のチマノウスカヤ選手は隣国ポーランドへ亡命している。

 開会式で配布されるはずだった弁当は、10000食のうち4000食が廃棄される一方、ボランティアの男性が「廃棄するくらいなら自分たちに回して欲しい」と訴えようとするという出来事があった。

 

 

 しかしながら、もしオリンピックが、誰か特定の人を儲けさせるための商業主義的イベント、政治的失敗から目をそらすスポーツウォッシングであるならば、成功だと言えるだろう。

 日本のCOVID-19感染状況は深刻である。すでに述べたように、感染者数は東京だけで毎日数千人、陽性率が高いということは、それだけ市中感染も広がっているということだ。その中でも感染力の強いデルタ株が広まっている。

 医療が逼迫する中での対応を求められた田村厚労大臣は、「医療にたずさわる方には限界がある。無尽蔵でない」と述べた。その通りである。そして、病床を増やしても、医療従事者はすぐには増えない。それは、オリンピックの一年以上前からわかっていたことだ。

 医療のキャパシティに限界があるのであれば、その前段階で抑え込む、つまりは感染が広まらないように政府は尽力すべきだった。スイス・チーズモデル(https://www.nytimes.com/2020/12/05/health/coronavirus-swiss-cheese-infection-mackay.html 日本語訳 https://twitter.com/aicecreaming/status/1422075605172977666?s=20)にあるように、感染の抑止には、個人の努力とともに社会の責任も必要である。中でも、必要に応じた政策立案と予算の配分(モデル中、政府の広報と資金援助)は、政府にしかできない。

 だが、政府はこの一年間、アリバイ作り程度の弱い補償と道徳観念を盾に「自粛」を呼びかけるばかりで、必要な政策を立てて来なかった。

 陽性者の増加と医療の麻痺は、その結果だ。

 

 オリンピックはこの時期において、情報の発信元たるメディアをジャックすることで、危機感の共有を弱くし、また政策の失敗から目をそらさせることとなった。

 以下の記事によれば、「緊急事態宣言」とその中でのオリンピック開催は、矛盾したメッセージとなるため効果がうすいと言う。

 

原田教授によると、人は矛盾したメッセージを受け取ると「認知的不協和」と呼ばれる不安な状態に陥り、都合の良い情報だけを受け取るようになる。五輪のお祭りムードが続く中では、緊急事態宣言も人ごとのように感じるため、効果は薄れると指摘する。

www.jiji.com

 

 流行第五波の中でのオリンピックは、情報の発信元をジャックするだけでなく、それ自体が緊急事態宣言の効果を減少させる。上記スイス・チーズモデルでは、「政府の広報」も重要となるが、その方法も誤っていたと言える。

(なお、上に引用した記事で、原田教授は「高速道路や公共交通機関の値上げによる移動の抑制」を感染対策のインセンティブ(動機付け)に挙げているが、私は動機付けの例としてマイナスのものを挙げることについては疑問である。今まで、ろくな補償も社会保障もないまま、「感染するかもしれない」「感染させるかもしれない」というマイナスの動機付けで、私たちは動いてきた。それがいい加減疲弊しているのが正に今ではないか。)

 

 イベントの中止や商店の営業休止、美術館・図書館等の休館等、様々なものが抑圧され、感染が拡大する中で、なぜかオリンピックだけが健やかに、のびのびと開催されている、ように見える。

 しかし、ここにもまだ問題がある。日本の夏は暑い。三十年前ならまだしも、現在の都市部の暑さはほぼ亜熱帯と言っていいのではないだろうか。加えて多湿でとてもスポーツができるような状況ではない。事実、1964年の東京大会では、暑さを理由に10月に大会が行われている。

 この時期にオリンピックが行われるのは、アメリカでオリンピックの独占放映権を持つNBCに配慮した結果であると言う。他の時期では、別の大きな大会と被ってしまうのだ(参考 https://jp.reuters.com/article/summer-olympics-tokyo-idJPKBN1KK09D)。

 つまり、オリンピックという「ショー」で一番稼げるのがこの時期なのだ。

 開催中も選手から暑さに対する悲鳴が上がっていたが、これは早めに現地入りして暑さに慣れることができなかったせいでもあるだろう。早めに現地入りできなかったのは、日本国内の感染状況が落ち着かなかったからである。

 さらに言えば、COVID-19の世界的な流行も、一年では十分に対策できないことが予測されていた。そのため、IOCからは二年延期案や、パリ側から2024年の共同開催が提案されていたが、当時の首相だった安倍前首相が一年延期を希望し、今年の開催となった(https://www.jiji.com/jc/v4?id=20210608oly-enforce0001)。

 一年延期と決まったからには、それに向けてCOVID-19の流行の抑止に努めなければならなかった。しかし、それも怠った。これについては前回のブログに書いたので割愛する(https://masainos.hatenablog.com/entry/2021/07/23/195839)。

 つまり、最も「健やかに、のびのびと」尊重されているのは、オリンピックというイベントそのものではない。「この時期にオリンピックをやる」と決めた、スポンサーや首相等の政策決定者の意思である。

 それ以外の人々は、医療従事者であろうが、支持者であろうが、私のような不支持者であろうが、たぶんアスリートでさえ、割とどうでもいいと思われている。

 

 オリンピック東京大会は、新型の感染症の流行がまだ収まらず、それどころか拡大の兆しさえ見える中で開催された。

 感染者が増えれば医療のキャパシティを圧迫する。しかし医療者はすぐには増えない。それは一年前からわかっていたはずだ。ならば政府はそもそも「増えない」仕組みを作らなければならなかった。でもそれはなく、呼びかけに終始し、その一方でオリンピックが開催されている。異様な大会である。

 

 

 

 異様であるが、ある意味でこの異様さは、今まで見知ったものでもあった。

 例えば、佐々木氏の容姿を揶揄するような演出案や、森氏の差別的発言そのものも問題であるが、ここから見えてくるのは、オリンピックレベルの国家イベントについて何らか決定権を持つような、ようするに「えらいひと」というのは、性別・来歴・考え方等の面で、本当によく似通っており、そうした集団がものごとを動かしている、ということだろう。

 均質性が高い、言い換えれば多様性の低い集団で起こりやすい心理を「グループシンク」、「集団浅慮」「集団思考」と言う。

 

強い結束力を持ち▽外部からの影響を受けにくく▽支配的なリーダーがいて▽多様な選択肢を検討する手続きを持たない――などが特徴。

 

こういう集団は、自集団を万能と思い込み▽自分たちのモラル(倫理観)に信念を持ち▽外部の人々を見下し▽疑問や異議を持つことを自己規制し▽満場一致が何より大事と考え▽反対者には圧力をかけてしまいがち――だという。

mainichi.jp

 

 均一的で自信過剰な集団は、「個人で考えるよりよほど愚かで極端な結論に走ってしまいがち」だという。

 しかし、問題はそれだけではない。彼らの「個人で考えるよりよほど愚かで極端な結論」は、政治的・社会的立場が強いだけに、自分たちと性質の異なる個人の訴えを軽視し、抑圧し、押しつぶす。

 例えば、低容量ピルが「若い女性の知識のなさ」や「悪用のおそれ」によって、認可が遅れる、または条件付きで認可される。LGBTに対する差別撤廃の法案は、「理解促進」を名目にして骨抜きにされる。誘致当初掲げられていた「復興五輪」は、東日本大震災からの復興は、どうなったか?

 意思決定者の「こうあるべき」にそうことを、ひそやかな形で、あるいは苛烈な形で、私たちは日々要求されているのであり、「大きな問題がない」「波風が立たない」とは、誰かの悲鳴が押し殺されているという状況なのだ。

 

mainichi.jp

 

 東京オリンピックは異様な大会であった。

 パラリンピックはどうなるのだろうか、今はそれが心配だ。