突劇金魚『罪と罰』を見にいきました

 ドストエフスキーのおたくなので突劇金魚の『罪と罰』の舞台を見に行った。大阪の芸術創造館で、3/2〜3/5まで公演をしている。

kinnngyo.com

 小説家の北野勇作氏がマルメラードフをすると言うことで、「それは見たいやろ」と見に行った。大変良かった。

 チラシにある相関図がめちゃくちゃ分かりやすいのでしおりとかで欲しい。

 

 ドストエフスキーの後期長編は大体長い。『罪と罰』も上下巻で500gくらいある(新潮文庫の場合)。それが3時間に、削られているシーンはあるがダイジェストにならず、むしろ忠実に舞台化されていて、第一幕の半分も行かない前にもう来て良かったと思った。

 先述の通りレベジャートニコフや追善供養、ソーニャによるラザロの復活の朗読等、削られている部分もあるが、これによって主人公ラスコーリニコフを中心とした心理サスペンスという部分がくっきりしたと思う。主に原作にあった概念的乱闘シーンというか、滑稽と悲哀が目まぐるしく入れ替わり、ひっくり返るカーニバル的部分がなくなった分、より緊張感や対峙の緊迫、ラスコーリニコフのキリキリした所が鮮明に描かれていた。

 マルメラードフが身の上話をするシーンでは、何か言うたびに周りの酔っ払いが哄笑する。マルメラードフはまじでどうしようもない飲んだくれで、無職で何もかも質にいれて酒代にしてしまい、娘ソーニャを娼婦に落とし込んだ上にそのソーニャの稼いだ金まで呑んでしまうという本当にどうしようもないおっさんである。マルメラードフの話の中のソーニャごと、酔っ払いは嘲笑う。冒頭すぐにあるこのシーンはマルメラードフの痛々しさがグッと際立っていた。

 

 舞台ということで、全員当たり前だが生身の身体を持っているのだが、スヴィドリガイロフの「ラスコーリニコフの影」という部分が視覚的に見え、またスヴィドリガイロフがだいぶ「ヤバい人」のオーラを醸し出しているので、本当に怖かった。ラスコーリニコフがソーニャを責め立てるために言った言葉をそのまま繰り返すシーンなどはゾッとした。

 スヴィドリガイロフは、チラッと出てきた瞬間から「スヴィドリガイロフだ……!」というオーラが出ていてよかった。初登場シーンはちょっと人間離れしているというか、悪魔っぽい。一方ドゥーニャに「服の裾に接吻させて下さい」とすがるシーンとかめっちゃ気持ち悪くてよかった。

 スヴィドリガイロフは舞台の上で人間になったり悪魔になったりする。ラスコーリニコフを責め立て、その言葉を繰り返し、一方でドゥーニャに懸想して破滅に向かう。なるほど人気のキャラクターだと思った。推しのキャラは別にいるが推しの俳優にやってもらうならスヴィドリガイロフ、みたいなとこありません?

 

 悪魔といえば、ラスコーリニコフの見ている幻なのか、蜘蛛みたいな生き物? が出てきて、コツコツ床を叩く。最初は小さく、物陰から出てきた彼らは、後半には大人の背丈になって、堂々と歩く。原作では、ラスコーリニコフはやたらと歩き回り、悪夢を見て、ぐるぐる葛藤するのだが、舞台では歩き回るというのが難しい分、ラスコーリニコフの恐れや精神的な緊張や疲労が、こう言う形に置き換えられているのかなと思った。不気味でよかった。

 なお、昔同縮尺の地図を重ねて調べてみたことがあるのだが、ラスコーリニコフがうろついているセンナヤ広場〜下宿はだいたい泉の広場から地下鉄梅田とJR大阪の間くらい、ソーニャの家は大丸梅田あたり、老婆の家はハートンホテル付近の線路上だった。結構狭い範囲をうろうろしているようだ。

 

 ラスコーリニコフとソーニャがお互いを憐れみ、抱きしめ合うシーンは、あまりにも二人が心許なく見えてこっそり泣いた。

 舞台セットは段差があり、上は大きく空いている。その一番下の段のところで、しゃがみ込んでお互いを抱きしめて泣いている二人は、周りの空間に比して小さく頼りなく、痛々しく見えた。

 舞台を見ていて思ったのは、経済的に追い詰められたりしていても殺人はやはり自分の意志であり、ポルフィーリィやスヴィドリガイロフ、ソーニャによる働きかけや追い詰めがあっても、自首はラスコーリニコフ自身の意志である、という点が重要なのかなということである。

 ラスコーリニコフは作中で様々に考えを翻す。慎重にやろうと思ったかと思うとやけになったように犯行を仄めかす。ソーニャに語る動機にしたところで、前言をどんどんひっくり返す。ラスコーリニコフにも動機の芯はわからない。しかしとにかく、それは彼が自分の意志で行ったのだ。ソーニャへの犯行告白のシーン、動揺し、声を荒げ、泣いたり怒ったりするラスコーリニコフの姿を見て、彼はそこにこだわっているのではないかと思った。

 ポルフィーリィからは容疑者として疑われ、スヴィドリガイロフからは脅しめいたことを言われる。ソーニャには犯行を告白し、憐れみと倫理の訴えかけを受ける。ラスコーリニコフは物語の中で様々に揺らがされ、ふらふらになり、何度も意志を翻す。自首のシーンでは、十字路に接吻しても告白は出来ず、警察署に行って、一旦やめてからまた戻り、犯行を自白する。ぐわんぐわんにあっちからこっちへ動揺しまくった一人の人間が、最後に自分の意思でそこに到達するのが『罪と罰』という物語であり、その後の回復は、また別の物語なのである。

 何度となく読んだ物語であるが、舞台の上で歩き、話し、ふて寝し、対話するラスコーリニコフを見ていると、彼の動揺の生々しさをひしひしと感じた。動揺して、揺らぎ揺らがされ、自分でも訳の分からないままに走っていく、先の見えなさ、分からなさ、ラスコーリニコフの今まさに直面している経験を、3時間のうちに自分も一緒に生きた。とても真新しい形で、もう一度『罪と罰』に出会い直すことができたように思う。

 

 原作の火薬中尉ことイリヤ・ペトローヴィチは、本作では巡査的な立ち位置になっているのか、制服を着て、督促状を持ってくるところ以外あまりラスコーリニコフと絡まない。実は原作でラスコーリニコフが火薬中尉に自首しようとこだわるのがよくわからなかったのだが、舞台を見ていて何となく滲み出る「良さ」を感じ、「えっ、そういうこと? そうなのドストエフスキー?」と百年以上前に物故した作者に話しかけていた。

 舞台に話を戻すと、ラスコーリニコフ心理的な葛藤の檻が、イリヤ・ペトローヴィチへの犯行の告白によって破られたような感じがした(告白後のラスコーリニコフに椅子を差し出すというシーン、良き改変だった)。彼はラスコーリニコフ心理的葛藤劇とはほぼ無関係である。その外側にいて、彼は彼で生活をしたり仕事をしたりしていた。彼への犯行告白は、自分の思想に従い、行動に悩み、自身の内側の世界で生きていたラスコーリニコフが市井へと出てくる、その象徴でもあると思った。舞台のイリヤ・ペトローヴィチは何となくフレッシュな感じがして、そこもよかった。その後、話は容疑者の逮捕だったり裁判だったり、そういう手順の決められた秩序ある場所へと移るだろう。ラスコーリニコフの改心は、原作でも舞台でも、その入り口まででその後のことは描かれていないのだが、『罪と罰』という物語と、「その次」の描かれない話への橋渡し的な部分であったように思う。

 

 あと私はポルフィーリィが推しなので、ポルフィーリィがかっこよくて良かったです。

 ラスコーリニコフが話している間、ポルフィーリィが実は結構鋭い目で見ていたりとか、そういうのも舞台の醍醐味であった。

 心理的サスペンスと言ったが、それと同時に『罪と罰』は犯罪サスペンス劇でもある。ポルフィーリィが只者じゃない、怖さを秘めた人間でないとサスペンス性は半減してしまう。本作は飄々としていてなかなか食えない人っぽくてよかった。ザ・善人のラズミーヒンと親戚というのが信じ難い(と言っても遠縁だが)。

 ラズミーヒンと言えば、原作ではエピローグで紹介されるラスコーリニコフが火事の中から子供を助けたというエピソードが、本作ではラズミーヒンの口から語られるのだが、その報道記事を手帳に挟んで持っていて、友達の記事を常に持ち歩いている奴みたいになっていて面白かった。わかる、ラズミーヒンはそういう奴だよ……。『罪と罰』中巻(ない)にもそんなシーンがあったと思う(ない)。

 

 ところで、私は趣味でドストエフスキー紹介パンフレットを作成している。今のところ『罪と罰』と『悪霊』が公開済みだ。ざっくりしたあらすじと人物相関図、あいうえお順人名表が載っている。よろしければご活用ください。

 

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