※ こちらはマツさん主催の批評誌『Silence vol.1』(特集・私と子供。私の子供。私も子供)に寄稿した評論です。
フィリップ・アリエス『子供の誕生』によれば、大人への発達途上の存在としての「子供」という概念が誕生したのは、十七世紀以降であるという。それ以前には、子供は体力や体格の面で成人に劣る「小さな大人」と捉えられていた。心身ともに未成熟で、大人の保護と精神的・身体的涵養を必要とする「子供」、大人とは異なる存在としての「子供」という考え方は、実はそれほど古いものではない。
『子供の誕生』によれば、子供と大人を別物として分かつ決定的な画期は、学校制度の成立だった。学校は、ある一定の年齢層を大人から引きはがし、発達段階を考慮して教育を行う。発達途上の存在である子供、より正確にいうならば、青少年期はここにおいて誕生した。それ以前に教育機関の代わりを果たしていたのは徒弟制度であったが、ここでは子供たちは「小さな大人」と捉えられていたし、教育は職業訓練の一環として行われていた。
本稿では、アリエスによって示された命題について、では日本ではどうだったのか? ということを考えてみたい。とはいえこれでは広すぎるので、考察の対象を作文及び作文教育に絞って考える。なお「覚書」の題名通り、これは評論というよりは、上記の問題意識から参考資料を集めたノートのようなものであることをご容赦いただきたい。
「少年」ということ
田嶋(一九九九)によれば、明治期の日本では、少年と青年という概念は、現在のように必ずしも成長段階の区切りを踏まえた一組の概念として使用されておらず、しばしば「少年」という言葉は現在言う青年層までも包摂した用語として使用されていた。田島氏は、明治二十九年創刊の『少年世界』(博文館)の調査を通じて、「少年」が「中年」と組になった語として、勉学の途上にあるもの、知的成熟の前段階を捉えたものとして使用されていたことを明らかにしている。この時期には「青年」概念は未成立であり、「少年」は、修養時代の二十歳前後までの若年層全体を示す用語として使用されていたのである。
さて、この『少年世界』の目玉は、なんと言っても作文投稿欄であった。明治期においては、文を書くことは、自己表現としても立身出世の道具としても、現在よりはるかに重く捉えられていたのである。投稿雑誌は明治初期から複数刊行されており、十歳前後から二十歳過ぎまでを含む多くの若年層がこれらに作文を投稿している。しばしば賞品つきの懸賞作文の募集も行われていたが、投稿者たちが作文を書き、出版社へ送った一番の動機は、自分の意見を全国へ向けて発表できるということであった。明治前半においては、作文教育の主役は学校ではなく、私塾等の学校外の教育施設での学習であり、雑誌への投稿であった。
では、こうした雑誌に投稿された作文はどのようなものであったか。明治十年に創刊された『穎才新誌』は、明治二十〜三十年代に隆盛を迎えた若年層向けの投稿雑誌の走りであるが、ここに掲載されている作文は、そのほとんどが「大人」のものであった。すなわち、当時の知識人が使用していた漢文訓読体による、堂々たる論説文・紀行文等である。
老梅謝シテ春季将ニ去ラントス一日風微ニシテ日霽ルニ会シ友人ト共ニ品川沖ニ立干ヲナサントス時ニ風軟ニシテ海貼ス軽舟ヲ浮ベ潮ニ乗ジテ纜ヲ解キ舟中酒ヲ置キ以テ退潮ヲ俟ツ既ニシテ潮退クヿ殊ニ速カナリ乃チ船中ヨリ出デヽ魚介ヲ捕フ兒女欣々トシテ裳ヲ褰ケ砂ニ走ル(以下略)
(『穎才新誌』第百十五号、明治十二年五月十七日発行)
これを書いたのは東京在住の十三歳男子である。このような作文がいくつも投稿されており、年齢も十代前半、しばしば十歳前後の児童もいる。そのくらいの年代の手になるものとしては、現在の感覚からすれば背伸びの感があるが、当時としてはこれは特段不思議なことではなかった。
江戸時代の教育と作文
日本における近代教育制度は、明治五年に発布された学制に端を発するが、無論これによって近代教育制度が整備されたわけではない。むしろ、学制から二十年ほどは、「近代教育制度」にどういったカリキュラムが必要なのか、教科書すらないままに始められ、様々に模索が重ねられた制度形成期であると言える。この時期には、当然のことながら、学校教育と言っても、近世のそれの延長のようなものが多く、教科書も寺子屋等で使用されていたものが引き続いて使用されるケースも多々見られた。
先に引用した『穎才新誌』に投稿された子供たちの作文が「大人」のものであったというのは、近世の状況をそのまま引き継いでいるということである。近世においては(そして明治維新後しばらくも)現代にあるような子供向けの教科書は、いろはや千字文等のごくごく初歩的なものを除いてほとんどない。例えば、士族階級の子供たちは、『論語』をはじめとした儒教の経典を学ぶ。学ぶ際には、素読と言って「経典の丸暗記」という方法がとられる。句読師と呼ばれる先生役が、白文、つまり返点や送り仮名のない漢文の本文を指し示し、数文字ずつ読み方を教える。その後に暗唱させ、つまづいたところはまた覚え直す。これを本文全て丸暗記するまで繰り返す。その際、意味は教えない。それは暗記が済んでから行われる。こうすることで、子供たちは漢文訓読体の型を体で覚え込んだのである。上に引用した『穎才新誌』における漢文訓読体は、こうした丸暗記式学習法すなわち素読によって身につけたものである。こうした訓読体による作文は、漢文体による作文の前段階的な学習法として位置付けられていた。
なお、士族以外、庶民については、教育方法が明らかでない部分も多いのだが、初歩のいろはや名頭・名尽等で基本の文字や短文・短句を習得した後は、「往来物」と呼ばれる手紙文の手本集によって習字と共に手紙の書き方を学ぶ。これはいわゆる「候文」であり、形式に則ったビジネス文書に性格は近い。これもまた、先に触れた『少年世界』等において、投稿作文欄にいくつも見出すことができる。
すでに述べたように、明治においても近世の学習形態は継続されており、学校教育でも訓読体や候文による作文教育が行われている。ただし、学校教育は、「国民皆教育」の理念のもとに一括された教育課程や、そもそものカリキュラムの模索期であることから、士族・平民の両方からしばしば不満を持たれていた。彼らの不満を受け止める場所が私塾であり、投稿雑誌だったのである。
文体及び内容の変化
こうした状況は、明治期後半に変化を迎える。岩田(一九九七)は、『少年世界』の投稿作文について、第五巻(一八九九)から第十六巻(一九一〇)までの文体を分析し、一九〇三年頃の誌面における言文一致体採用を契機として、文体が従来の漢文訓読体や擬古文体から言文一致体(口語体)に変化していることを明らかにしている。岩田氏は、この変化の背景に、少年を無邪気で天真爛漫な存在として捉える編集部の「少年観」の変化があると論じている。一九〇三年の『少年世界』第八巻には、誌面における言文一致体の採用が述べられているが、ここでは「青年諸君」による「空文」に対して、言文一致体が「天真爛漫修飾なき実地の文章」として位置付けられている。このことは、前に触れた「知的成熟の前段階」全体を包括する「少年」概念が、十代半ばまでの「少年」とそれ以降から知的成熟途中の「青年」へと分化したことを示しているのみならず、「少年」読者に対する「天真爛漫修飾なき実地の文章」の書き手という編集部の意識も反映している。岩田氏の指摘するように、『少年世界』の読者は、こうした編集部の視線を内面化して、自分達よりも少し上の世代が書いていた漢文訓読体ではなく、幼稚で「天真爛漫」な言文一致体による作文を執筆したのである。
さて、この変化は、『少年世界』編集部にのみ起こったことではない。滑川(一九七七)によれば、明治二十年代には文体の多様化が顕著になり、これに対応して「正しい文章」の基準も多様化する。先に引用した漢文訓読体や候文は、権威はまだ維持しつつ、その位置付けは次第に下落していく傾向にあった。また、学校教育においては、ヘルバルト派を援用した自由発表主義の作文教育が次第に重要な位置を占めるようになる。これは、児童の自発的な活動や経験を重んじ、その養成と発表の手段として作文を位置付けるものである。児童の経験を重んじるならば、文体は難しい漢文訓読体ではなく、口語体(言文一致体)へと変化するのは必然であった。明治末頃には、です・ます調の口語体作文が普及するようになる。
作文の内容や題材もまた、児童の経験に即したものが選ばれるようになる。先に引用した『穎才新誌』に代表されるように、明治期前半においては、作文の題材はしばしば男女同権論といった社会問題も含まれていたが、この時期には、児童個人の経験を「すなおに、のびのびと」執筆することに価値を置かれるようになる。この時期が、日本の作文及び作文教育における、「子供」の出現であった。
江戸時代における教育の性質
口語体による作文が一定の地位をしめると、それ以前の作文やその文体は「空文」として退けられる。上に引用した『穎才新誌』の作文においては、「舟中酒ヲ置キ以テ」という表現が見られるが、これは必ずしも十三歳の少年が飲酒していたということを意味しない。当時の作文とは、漢文体や漢文訓読体における一定の「型」を踏襲するものであり、先人の残した良文を模倣することが作文修養の方法だった。当時の作文の参考書とは、基本的に模範文集であり、しばしばこれに季節やシチュエーション別に分類した定型句集が付属する。同引用文の冒頭にある「老梅謝シテ春季将ニ去ラントス」も、そうしたフレーズ集からの引用であろう。繰り返すが、こうした模範文の模倣が当時の作文においては正攻法として位置付けられていたのであり、当時からその空疎さは批判されていたとしても、それは「模倣」で止まってしまうことが問題なのであって、若年層が内容も分からずに模範文をまねること自体はそれほど問題とはされていなかった。模倣による作文練習は候文においても同様であり、こちらはビジネス文書の性格が強い分、フレーズのつぎはぎという側面はより大きくなる。
こうした作文及び作文教育の形式は、それを社会の側が求めていたからに他ならない。これらが明治において「空文」とされたのは、文を書く行為に対する社会的要請が変化したからである。では、江戸時代における社会的要請とはどのようなものだったのか。これは複数存在するが、そのうちの一つは、身分=職業に応じた必要な知識を身につけることである。
漢文(変体漢文含む)や漢文訓読体は、士族階級におけるコミュニケーションや行政に使用される文体である。つまり、『論語』等の経典を学ぶことは、精神修養であると同時に、将来の職業に必要な知識を身につけることであり、実際の役に立たない文章という意味の「空文」とは対極に位置するものだった。江戸後期には、豪農の子供も経典を学ぶケースが増加するが、これは、村落共同体において、農民と支配層とのいわば中間管理職として、「お上」からの通達を伝えたり、年貢の計算やその報告等の統治行政を豪農が分担していたからである(ルビンジャー、二〇〇八)。やはり教育は職と密接に関係していたのであり、純粋な教養のためではない。士族以外の町人層もこれは同様である。木村(二〇〇六)は、江戸中期以降に盛んになった読書算以外の稽古事は、娯楽や趣味だけでなく、商売相手や同業者との交わり等の社会生活における交際に必要な実用的な活動でもあったことを指摘している。橋本(二〇二〇)によれば、読書算及び稽古事は、家の方針や学習者の意思を踏まえ、家の営みの一環として行われており、子供たちは、場合によっては複数の塾を組み合わせてパートタイム式に学習を行っていた。
教育制度のなかの子供
こうした学習形式や内容は、学校教育というよりは、徒弟制度におけるそれに近いものではなかったかと私は考える。民営の寺子屋や手習塾だけでなく、江戸時代には藩校という公営と言えるような学習機関も存在しているが、前節で触れたように、それは身分制度下において、半ば決定されている将来の職業のための知識を身につけるためのものでもあった。「童蒙」「初学者」のような区分はあったにせよ、それはあくまでもテキストや技能習得の最初期の段階を示すものであり、発達に応じた段階的な教育課程の存在を意味するものではない。寺子屋や藩校といった江戸時代における様々な教育施設は、身分制度と支配形態の安定により、徒弟制度における教育の側面が、店や師弟といった個々の間柄におけるものから、村落や都市社会といった相対的に大きな共同体内部において延長・機能特化されたものであると言える。
一方、近代教育制度における「子供」像もまた、社会的要請から免れていない。上に引用した岩田(一九九七)にも指摘されていたように、『少年世界』投稿者は編集部の「天真爛漫」な子供というイメージを内面化して作文を書いていた。誌面掲載、または懸賞という直接的な報酬がある分、『少年世界』における内面化の要請とその過程は見えやすいが、こうした状況は雑誌に限らず、あらゆる局面において発生していただろう。
のびのびした「子供」像は、日本では学校教育制度の形成が完了して以降のある時期から登場する。それは、発達理論を欧米から導入したことによって、発達途上段階に応じた教育の重要性が認識されたことの反映であるが、その裏返しとして、そうした「子供らしさ」が評価の一視点として教育体系へと組み込まれたということでもある。発達途上の子供という考え方は、子供の心身の成長に沿った教育の整備を促すと共に、ある意味では、発達途上にある個人を「子供らしさ」という枠組みへ入れてしまうことにもなった。
科学的事実に基づいて教育課程を考案したとしても、教育は、社会/政策/テキスト/教員/授業の内部において、様々な価値判断が入り込まざるを得ない。再びアリエスの論に戻れば、「子供」を出現させたのは学校教育であるが、それと同時に新たな「子供」のイメージを被教育者に対して投影することにもなる。むしろ、アリエスも図像や言葉の用法から「子供」期の出現を探っているように、それは常に見る側の、すなわち大人の側の問題なのである。本人たちがそれを説明する方法を持たない以上、「子供とは何か」という問に対して答えようとする行為は、そうした側面を多かれ少なかれ含むものである。
参考文献
アリエス、P.(一九八〇)『〈子供〉の誕生』杉山光信、杉山恵美子訳、みすず書房
ルビンジャー、R.(二〇〇八)『日本人のリテラシー 一六〇〇年−一九〇〇年』河村肇訳、柏書房
岩田一正(一九九七)「明治後期における少年の書字文化の展開―『少年世界』の投稿文を中心に―」『教育学研究』六十四巻四号、一〜十ページ
木村政伸(二〇〇六)『近世地域教育史の研究』思文閣
田嶋一(一九九四)「『少年』概念の成立と少年期の出現―雑誌『少年世界』の分析を通して―」『國學院雑誌』九十五巻七号、一〜十五ページ
滑川道夫(一九七七)『日本作文綴方教育史1 明治篇』国土社
橋本昭彦(二〇二〇)「手習塾から小学校へ」『明治の教養 変容する和漢洋』勉誠出版、九三〜一二二ページ
『穎才新誌』復刻版、不二出版
『少年世界』復刻版、名著普及会
江戸時代の教育については、以下の文献を参考にした。
石川謙(一九六〇)『日本歴史新書 寺子屋』至文堂
竹田勘治(一九六九)『近世日本学習方法の研究』講談社
辻本雅史(一九九九)『学びの復権 模倣と習熟』角川書店
あしなが育英会 親を亡くした子供、障害などで保護者が十分働けない家庭の子供を支援する民間団体
おてらおやつクラブ 大阪二児置き去り事件と大阪母子餓死事件をきっかけに創設された一人親家庭支援団体





