ぶかまを見に韓国まで行ったよ日記③

1日目・2日目のブログは以下

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 起きたら10時だった。体力が「終わり」に近づいている気配がしたので、景福宮は諦めて北村韓屋村の散策に絞る。天気は曇りで、予報でも降水確率は低い。3日目にしてようやく雨ではない日だ!
 しかし寒い。めちゃくちゃ冴え返っとるやないか……。これも予報で渡韓前にわかっていたので、一応冬向きのものとカイロを持って来ていた。冬なのか春なのか分からないチグハグな格好で出かける。
 北村韓屋村(紹介ページ)は伝統韓屋の並ぶ地域であるが、かなり坂道がきついところにある。1日目から思っていたが、ソウルという街は坂が多く、高低差があって面白い。国立中央博物館からの眺めも面白かったが、ここも良かった(しかしこれはほぼ平地からなる土地から来たからそう感じるのかもしれない。東京に初めて行った時も似た感想を抱いた気がする)。北村韓屋村の周辺は、韓服を着て歩いている人もたくさんいて、ウロウロするだけで楽しい。
 なんとなく人の流れについて歩いていると、백인제가옥(白麟済家屋、公式ホームページ)というところに着いた。中に入れるらしい。階段を登って門をくぐるともう一つ内に門があって、庭の木々が見える。児童文学の世界みたいだなと思う。家の中には入れないものの、外から見学や撮影をすることもできる。庭も季節の花が咲いていて綺麗だった。韓服を着た人もそうじゃない人も、気に入った場所で楽しそうに記念撮影していてとても良かった。

レンガの門、内側に庭の木が見える

内門的なところ

板張りの間、奥はガラス窓。右手に彫刻入りの木製の応接セット、ゴザの上に置かれている。左手奥には棚。

居間

石の階段、庭木が二本。奥には花の咲いた木。

庭の奥の方

 目についたお店にふらっと入って気に入ったピアスを買っていると、雨が降ってきた。いや降るんかい! お店の主人が慌てて出てきて、外の商品が濡れないようにビニールをかけていた。しかし昨日のようなどしゃ降りではなく、かなり細かい霧雨である。これくらいならまあ……風情があると言えなくもないか……と散策を続ける。私は雨が嫌いなのでこれが精一杯歩み寄った感想であったが、伝統家屋の向こうに雨にけぶるソウルが見えるのは確かに素敵だった。

両側に伝統韓家の並ぶ通り。傾斜のきつい下り坂で、奥にビル群が見える。

北村韓屋村

 観光コースと市街地が接しており、ぼんやり歩いていると生活圏っぽいところに迷いこんでしまい、本格的に自分がどこにいるか分からなくなる前に大通りに戻った。雨もだんだん強くなって来ている。昌徳宮の方に気になっていた白磁のお店があり、そこへ行くことにする。
 김익영 도자예술(キム・イギョン陶磁芸術、紹介ブログ)は、昌徳宮の西側に接するようにあるお店&ギャラリーで、普段使いの器がメインであるが、鳥の置物や装飾的な花瓶、大きな壺も置いてある。
 お店のご主人に話しかけられ、意を決して日本から来て……と片言の韓国語で言ったところ、「どこから来たの? 東京?」と日本語が返って来た。大阪です。ゆっくり見ていってね〜というお言葉に甘えてお店をぐるぐる歩き回り、店に所狭しと積まれた器を見て回る。白磁は真っ白なのに影が薄青くて綺麗だ。お店にはでっかい壺が並んで置かれてある一角があり、海が並んでいるみたいだった。鳥の置物も小さいのから大きいのまで、色んな顔の子がいて可愛かった。
 買うのは家族へのお土産だけ、と思っていたのだが、どうしても気に入ったマグカップを見つけてしまう。どうも私は「真っ白でざらざらした質感の白磁」がとても好きらしく、そればかり手に取っていたのだが、持った瞬間に「好き!」となってしまった。買うつもりなかったやん……とかマグカップいっぱいあるやん……とか自分に言い聞かせてみたが無駄であった。持ったり置いたりしている時点で終わりである。太宰治の『斜陽』に「しくじった。惚れちゃった」というセリフがあるが、そんな感じだ。
 このお店どこで知ったの? とご主人から尋ねられ、ガイドブックに載ってて……と言うと、「え!? 写真撮っていい?」とワクワク写真撮影をしてらして、ちょっと重かったけどガイドブック持って来て良かったな〜と思う。しかしああ言うのって掲載したお店に連絡とかないんだろうか。
 お店を出たら雨が止んでいた……と思ったらまた降り出した。もうホテルに戻ることにする。この時点で冷えと雨で胃腸弱を発しつつあったため、コンビニで買ったお粥を食べる。かぼちゃと小豆のお粥で日本のよりもちもちしていた。
 お粥を食べるとちょっと元気になったので、ホテル近くのデザインセンターへ行く。宇宙船みたいな外観で、中に人工芝があるのがまた長期航行の宇宙船みたいだと思う。グッズだけでなく、本もたくさん置いてあって面白かったのだが、ブックデザインを見てもあまり心が動かず疲れを自覚する。適当なところで切り上げ、ホテルでしばらく「レッドブック」の予習をした。
 渡韓最後の観劇は「レッドブック」。前日までの二つは小劇場系の作品らしいが、これは結構大きなホールでやる。登場人物も多い。ヴィクトリア朝が舞台で、「女が書く」こと自体がおかしいと言われるような時代に、官能小説家として才能を発揮していくアンナが主人公のパワフルな作品だ。

Today's Cast/안나 민경아 브라운 송원근 로렐라이 조풍래 도로시&바이올렛 한보라/존슨&앤디 원종환 헨리&잭 안창용 줄리아 권보미  코렐 김연진 메리 이다정/판사 외 박세훈 서점주인 외 강동우 경찰 외 이경윤 앙상블 임수준 앙상블 박지은 스윙 김영광

キャスト表

 型破りなアンナもそうだが、脇役も皆個性が強くてパワフルだ。特に「ローレライの丘」の女たちとその主人のローレライは、アンナの元雇用主ヴァイオレットと共に「あなたの話を聞かせて」と、アンナに「書くこと」への扉を開く、物語上重要な脇役でありつつ、それぞれ個性と書く動機がしっかりあっていい。古い慣習を壊して、小さなペンで城を築く、と力強く歌う「우리는 로렐라이 언덕의 여인들(私たちはローレライの丘の女)」はとても好きな曲だ。曲も歌詞も好きだが、自らが自らのために書く、ということを宣言しつつ、「여물지 않은 문장들이 자라나는 성」(まだ熟さない文章が育つ城)と、未熟さを肯定しているところが特に好きだ。インターネットではとかく初心者を何かと「かわいがり」たがる経験者がトキワの森の虫ポケモンのごとく飛び出してくるが、彼らが口を出したがるその人は、すでに自分の城を持っている。入れるのは招かれた時だけだ。「私たちが私たちのために書くこと」の強い肯定と誇りを、それは自閉ではなくこの世界に新しい城を築くことであることを、ローレライの丘の女たちは高らかに歌い上げる。

www.youtube.com

 ローレライは、亡き恋人の遺志を継ぎ、女たちが書くための場所「ローレライの丘」を作ったという女装の麗人である。私が見た回では、前回のぶかま公演でドミトリー役だったゾ・プンレさんがローレライを演じていた。公式のポスター(キャスト表上段右から二番目)では何となく儚げな印象だったが、黒衣のスカートを振り立てて走り回り、リヤカーをぶん回してまた走り回る、かなりわんぱくな人だった。恋人との悲劇的な別れ、という前情報から影のある感じを想像していたのだが、ローレライは初っ端から「ローレライの丘」に全力投球で元気いっぱいに動き回る。何となくであるが、「恋人の遺志を継いで」というのは、最初の始まりで動機の根っこでありつつ、ローレライ自身がそうしたいから、というところが今のローレライにとって活力の一番の源である気がして好きだった。
 本作のヒーロー・ブラウンも良かった。わりとお堅いというか良くも悪くも常識人、みたいなブラウンが、常識はずれで理解し難い人間であるアンナに惚れてしまい、自分で自分が訳がわからなくなってメチャクチャになっているのはかなりよかった。ブラウン役ソン・ウォングンさんの歌声がジェントルで危うく全てを信じてしまいそうになるので、逆に詐欺師の役とかを見てみたい。
 主人公アンナは、「あの変わった子」としょっちゅう言われる型破りな人間だ。そうしようとしているのではなく、自分でもよくわからないけどそうなってしまう。出だしから失業中でしょっぴかれたり、批評で叩かれたり、悩んだり落ち込んだりもするがへこたれない。ミン・ギョンアさんのアンナは、片時もじっとしていないような、全編はじけるような生命力に溢れているのだが、「나는 야한 여자(私はいやらしい女)」では絶望からすっと背筋を伸ばして立ち上がり、自分を維持していこうとするのが本当にかっこよかった。

youtu.be

 私は臆病で卑怯な人間だし、たぶん性質は「群衆」に近いのだろうと思う。最近こういう作品を見ると、自分は主人公とかエンパワメントされる側というよりは、「レッドブック」発売に抗議してる側に近いんじゃないかと思うのだが、それならそれで、自分に抵抗していい人間であろうとすることを諦めたくないとも思う。


 次の日はゆっくり起きてゆっくり空港へ向かう。この日は朝は曇りでだんだん晴れていった。最後の日にようやく、と思わんでもないが、雨の中スーツケースを引きずるのはちょっとなあと思っていたので助かる。
 今回は空港鉄道の直通列車の方に乗ったが、なるほど確かに快適だった。第一ターミナルと第二ターミナル、どっちで降りればいいのか分からなかったので、とりあえず第二ターミナル行きの切符を買って電車の中で調べる。
 列車の関係で早く着きすぎて時間に余裕があったので、空港のフードコートでコムタンスープのセットを食べたのだが、胃腸弱の回復食として正解だった。卵も入っているし、牛肉がかなり柔らかくなっているので、胃腸に負担なくタンパク質が取れる。胃腸弱の時は麺とか粥とかばっかり食べてるからタンパク質が不足しがちなのだ。醤油豆みたいなおかずも美味しかった。
 まだ少々時間があったので空港の本屋に寄ってみたら、ドストエフスキーの『罪と罰』が置いてあったのだが下巻しかない。やはり上巻から売れていくのだろうか。ク・ビョンモの『破果』も置いてあって、いかついピンクのかっこいいデザインだったのだが、自分と相談した末色々とキャパオーバーになりそうだったので見送る。代わりに待ち時間と帰りの飛行機で積んドルしていた『三体』(1作目)を読み終わった。しかしまだたくさん積み本があるのだ……。今回の旅行は本を持って来なかったのだが、重いというのと、積んドル崩しも目的の一つだった。
 そんなこんなで大阪に帰り着いたのだが、この日の大阪は雨だった。天気は西から東に変わるんだった、と雨に降られながら思った。

ぶかまを見に韓国まで行ったよ日記②

1日目の日記は下記リンク

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 ぶかまを見る日である。え? 本当に……? という感じで朝起きた。
 朝食を買いに出ると雨が降っていた。滞在前から天気予報をチェックしていたのだが、雨は降るなあ……降らんかもしれへん……やっぱ降るわ! みたいな推移だった。知ってはいたがちょっと悲しい。私は雨が嫌いである。
 朝食を食べたら地下鉄で再びイチョンへ。
 ところで、韓国の地下鉄は運賃が安い。初乗り運賃も安いし、ある程度の距離を行かないと運賃が加算されないようだ。ホテルの最寄り駅からイチョンへは八駅くらいなのだが、その間ずっと初乗り運賃だ。大阪市営地下鉄なら二段階くらい運賃が上がっている。1日目は現金を持っていなかったのだが、wowpassにチャージされている10000ウォンで足りるのか、大阪市営地下鉄のノリで乗っていたのでいらぬハラハラを感じていた。
 イチョンに到着したらまず国立ハングル博物館(公式ホームページ)へ。ずっと行きたかったところなのだ。平日だからかそれほど混み合っておらず、ゆっくり見ることができた。メモもたくさん取れて楽しかった。最初の映像展示だけは酔ってしまって見られなかったのが残念だ。

国立ハングル博物館、外観

国立ハングル博物館

 

 国立ハングル博物館には日本による植民地支配時代の展示もある。この中に、二冊の小学校用の教科書、『国語』と『朝鮮語』がある。つまりこの時代には、日本によって母語が「外国語」と位置付けられていた、ということだ。恥ずかしいことに、『朝鮮語』の教科書を見た時にどういうことかピンと来ていなくて、キャプションを読んでようやく分かった。『国語』教科書についてはある意味歴史の知識の範疇にあり、これがそうか……と見ていたのだが、『国語』と『朝鮮語』の二冊が並んでいるのを見た時、その暴力性と自分の呑気さに頬をはたかれた。
 国立ハングル博物館、という名前なのだが、それ以前の漢文やハングル・漢文混用の時代の資料も展示されている。言葉は人が使う。言葉が書かれ、作られ、使われたことを示す資料は、それと共に生きた人々の歴史である。印刷された本だけでなく、手紙や手書きのレシピ集、占いの本(?)なんかもあり、美的な「書」として書かれたものから日常の手控えのようなものまで、どういうふうに書かれたんだろうとか、どういう経緯で作ったんだろうとか想像しながら見るのはとても楽しかった。だから『国語』と『朝鮮語』の二冊の教科書を見た時のことは忘れたくないと思う。
 ミュージアムショップでお土産を買って外に出るとめちゃくちゃ雨が降っていた。どしゃ降りに近い降り方である。とりあえず国立中央博物館(公式ホームページ)の方へ行く。ここはかなり広くて人も多く、雨なのもあって一気に疲れてしまい、見たいもの優先で金属活字と青磁白磁の展示だけ見てホテルに帰ることにした。

国立中央博物館、外観。手前に木。

国立中央博物館と雨

 

 ホテルで足湯&休憩をしていよいよぶかまを見に行く(なおぶかまについてはこの日までに予習をして、ある程度流れは追えるようにして来た)。え? 本当に……? と直前まで思っていたのだが無事にチケット引き換えができて中に入れて席についてしまった。

표도르 김주호,  드미트리 최호승,  이반 김재범,  알료샤 박상혁,  스메르쟈코프 이준우

キャスト表

 

 私が観覧した回では、フョードル役キム・ジュホさんとイワン役キム・ジェボムさんが前回から引き続いてキャスティングされている。キム・ジュホさんはいわゆる「イケオジ」で、フョードル攻を一気に増やしたというめちゃくちゃかっこよセクシーなおじさまである。なんか普通にグルーシェニカがこっちを選んでしまうのでは? という危うさがある。
 イワン役キム・ジェボムさん……今回の渡韓の最大の目的はこの方のイワンを見ることだった。アン・ジェヨンさんが「わたし(たち)の心をめちゃくちゃにしたハチャメチャ歌うまお兄さん」なら、キム・ジェボムさんは「私たちの心を粉々にしたガラスのイワン・カラマーゾフ」である。ジェボムさんイワン回の配信をTLのフォロワーさんたちと共に見た後の私の第一声(ツイート)は「ご無事ですか」であった。
 それが見られるらしい。やばい。


 当時のことを思い出しながら書いているのだが、緊張が蘇って空行を入れてしまった。見た後は記憶が消えないうちに、病的な興奮と共にスマホのメモ帳に感想というか思い出したことをぺちぽち打ち込んでいたら電車を乗り過ごしたので明洞で降りて明洞餃子というお店でカルグクスを食べた(その時に書いたメモ。3000字くらいある。リンク失敗してたので貼り直しました)。付け合わせのキムチがかなり辛かったのだが、前の席に座っているお兄さんはサラダか何かみたいにぱくぱく食べていた。私は辛いものは好きなのだが、胃腸がなかなか許してくれないのでうらやましい。
 さて、ぶかまであるが、思いがけず「アリョスメだったな……」という感想になった。
 アリョーシャとスメルジャコフのやりとりがガチの喧嘩でめちゃくちゃ良かった。手は出ていないが拳の応酬の見えるようなバチバチのやり合いであった。二人とも思い切りがいいのである。
 スメルジャコフ役イ・ジュヌさんは、前韓国代表のフィギュアスケーターで、その点でも見たかったキャストさんであった。ジュヌさんのスメルジャコフは初っ端からグイグイ行くアッパーな感じでありつつ、何となく原作のスメルジャコフに近い雰囲気を感じた。あの書き置きを残しそう。ボムワン兄さん(ジェボムさん演じるイワンの通称)との温度差のせいか最初からすれ違い感があったのだが、イワンから拒否された後は、呆然とするというよりは一転「やはりこの世は絶望だった!」という強い確信を得たように思う。このスメルジャコフは迷わない。
 パク・サンヒョクさんのアリョーシャは、声が甘やかでマンネっぽい、と思っていたら、キレると歌声が鋭くなり、何それめっちゃええやん……と思った。末っ子らしい怯えや甘えをまとっていた前半からの헛소리で、それらをかなぐり捨ててまっすぐ父を見据えるのがかなり良かった。怒るアリョーシャ、めちゃくちゃいいな……。誰かのためではなく、自分のためのエゴイスティックな怒りであるところがまたいい。
 父といえばキム・ジュホさん、今回の公演ではイケオジを抑え気味にしていたので油断していたら、途中で顎クイのシーンが入って「あかんてそれは!!!」と思った。헛소리では皆千々に乱れながら縦横に舞台をふらつき走り回る中、フョードルだけは普通にウロウロしていて、幽霊っぽくて良かった。
 話をアリョスメに戻すと、スメルジャコフはイワンを、アリョーシャはスメルジャコフを通して「世界」と突然向き合わされ、絶望なのか無神論なのか、あるいは神への新たな回帰へとつながる何かなのかはわからないが、何がしかの確信を掴んでいる。その点にアリョスメを感じた、と思ったのだが、こうして整理して書き出してみるとイワ←スメ←アリョってこと……? 更に言えば神←イワだから神←イワ←スメ←アリョか。ハチクロ
 確信と言えば、チェ・ホスンさんのドミトリーは歌声の使い分けがすごかった。本当にミュージカル俳優を捕まえて言うことではないのだがホスンさんがまた「ええ声」で、一曲目の(ほぼ)ソロ曲나는 그런 남자야ではかなり強めの発声に寄せていた。ちょっとToxic masculinity(「有害な男らしさ」という訳語が定着しているが、正確には本人をも蝕む「有毒な男らしさ」と言った方が良いと聞く)を感じるような種類の強さである。一方で발 없는 새は優しくも澄んだ歌声でとても良かった。前者が軍隊的な男社会の中での強さであるとすれば、後者はそこから抜け出して、自分自身の道を得たということになろうか。ちょっと若ゾシマっぽさも感じた。
 それぞれがめいめいに確信を掴んでいる中、イワンだけはどこまで続くともしれない薄暗がりにいるような心もとなさを感じた。ジェボムさんのイワンは、神はいないと言いながらも神を求めて二階席を見る。神がいないということすら確信がない、というふうに見えた。最後にアリョーシャに尋ねたかったのは、「神はいるのか?」だったのかもしれない。……というような部分も、おそらく他の組み合わせで見ると印象が変わるのではないかと思う。その辺も面白いところである。

 などと中心を迂回するように感想を書き連ねてみたが、いやあ……ジェボムさんのイワン……。生きてるといいことがある……。先に「ガラスのイワン・カラマーゾフ」と書いたが、この方のイワンはそこはかとなく原作っぽいのである。というか何かもうドストエフスキーの文体なのだ。舞台の上の役者さんが「文体」とはこれいかにと私も思うが、そう感じてしまったのだから致し方ない。立ち居振る舞いなのか、神経質な雰囲気なのか、異様な微笑みがうますぎるところなのか、それら全部あるいはそれら以外のところに何かあるのか、とにかくめちゃくちゃ原作の文体を感じる。小説では(おそらく意図的に)イワンの外見描写がほとんどないのだが、ジェボムさんのイワンを見た後は「イワンにもえくぼがあるかもしれんな……」と思った。
 なお「文体」ぽいというのは決して文章ぽいとか観念的とかではなく、むしろちょっと生々しいくらいだった。外見描写がなく、自分の思想に生きる人間でありながら、イワンという人間は非常に生々しい。その生々しさの要因の一つは、思想に「生き損ねた」からではないか、と思う……という話をしようと思ったのだがぶかまからだんだん外れていく上にちょっとしたレポートみたいな分量になりそうだったので一旦措く。

【追記 5/21】私が見た回のキャストだと、割と全員の思い切りが良く、ボムワン兄さんもようやく感情を解放した、怒りを露わにしたという感じがしたのだが、一方でたいへん痛ましいのはなぜだろう……とおよそ一月半の間しがみ続けていたのだが、昨日フォロワーさんと話していて、一方でその自身の怒りに傷ついているという印象もあったせいではないか、と思い至った。というのも、自身の神への信仰、というよりは神を信じたいという自身の隠れた気持ちを自覚した上で、もう一度神の沈黙に出逢い直すことになるからだ。대심문관 Iは、スメルジャコフの발작のメロディラインをなぞりつつ、「歓喜」の感情を乗せられていることが作曲家さんから明らかにされている。ジェボムさんの대심문관 Iは、激しい怒りを露わにしつつ、ある瞬間にスッと「歓喜」に乗る。この時イワンは、感情の解放への喜び、神への訣別や「ついに言ってやった!」というような怒りに裏打ちされた喜びを全身に感じている一方で、それに対する神の返答はやはり、ないのだ。ボムワン兄さんは神の話をする時に2階席を見る。しかしそこには観客の我々しかいない……そこに神はいない。怒りも歓喜も、それを受け止めるものが不在の、返答のない、一方的な、虚しい「対話」なのである。

 更に言うと、ボムワン兄さんはわりと最初っからフラフラしていて線の細い印象で、もう自分の怒りや歓喜そのもの、およびその二つの感情の引き裂かれに体が引き摺られてしまって保たない、という感じもした(実際、대심문관 Iの最後では地団駄しながら滑って転んでしまう)。ありがとうぶかま、こんなイワンを見せてくれて……。無事粉々になりました。【追記終わり】

 140年以上第一部完のまま第二部の出ていない小説のミュージカルを見に行ったら、イワン・カラマーゾフがいたんですよ。ちょっとねえ……もう何がなんだか分からない。正直なところ、舞台もものすごく集中していたという感触はあるのだが、色々と衝撃的でほっそり以降の記憶が所々あやふやである。ただ「見た」という強固な手応えがあって「あれは夢?」などと思う余地は一切ない。夢といえば帰国してから「舞台を見ている」夢を見ていて、何かしら記憶には焼き付いているようだ。
 そういえばみんなが行ってるオリーブヤングなる店に私も行ってみたかったのだが、今回の旅行では近くになかった……と思っていたが、あとで地図を見るとこの日に横を通りすぎていたことがわかった。

ぶかまを見に韓国まで行ったよ日記①

 ドストエフスキーのおたくなので韓国までミュージカルを見に行った。
 『カラマーゾフの兄弟』原作の「브라더스 까라마조프」(ブラザーズ・カラマーゾフ、通称ぶかま)である。
 「そういうのがあるらしい」とは仄聞していたものの言葉もわからんしなと手を出さずにいたところ、ダイジェスト動画が公式から出ており、友人の導きもあって「衝突」としか言いようのない形で出会うことになる。言葉とか関係……はあるけどそれを軽々と乗り越えてくる衝撃であった。病的な興奮に囚われ、なぜかプレゼン資料を作り全然関係のないオンライン飲み会で発表するという訳の分からない行動に走る。その節はお世話になりました。

 プレゼン資料を元にTwitter用に再編した資料
 一昨年〜去年には配信もあり、やはり病的な興奮に囚われて俳句連作()を作った。その上での再演決定である。行かないという選択肢はない。

 

 締切で死んでたり旅行にかぶって仕事が入れられそうになったりしたが、観劇旅行経験のあるフォロワーさんとソウルトリップというアプリに助けてもらって何とか当日を迎える。やることリストがすぐ頭の中からすっ飛ぶので、アプリのチェックリストは本当に助かった。ファンレターも韓国語ができる友達に添削してもらった。後は行くだけである。

中央に胸をたたいている男性のイラスト(いらすとや)のあるアプリの画面

ソウルトリップで作成した旅のしおりの表紙

 ところで私は韓国語はほとんどしゃべれない。一応初級文法と中級までの主要な単語は頭に叩き込んだが、勉強の目標を「ぶかまを見る」に合わせているため日常どころか旅行の役には立たない。その上での一人旅であった。一人旅は何度かやったが、外国は初めてだ。
 空港は流れ作業なので前の人についていけばなんとかなったが、空港鉄道でさっそくソウル直通列車を逃した上に反対方向の電車に乗ってしまい、ついさっき出てきた第二ターミナルに戻ってしまった。めちゃくちゃ見覚えのある駅を降りて反対向きの電車に乗る。直通列車は諦めて普通列車に乗ったが、それほど混んでいるわけではないし、時間も20分くらいしか変わらないので助かった。
 ソウルに着いたら地下鉄に乗り換えてホテルへ向かう。旅行中はずっとプリペイドカードと交通カードを兼ねたwowpassというのを使っていたのだが、ここで早速wowpassが活躍した。wowpass公式twitterの教えに従って地下鉄に乗り換える。雰囲気とか路線の色が大阪市営地下鉄っぽくて何となく親近感を覚える。スーツケースを引きずってきょろきょろしていると、すかさず誰かが助け舟を出してくれて、親切なのと観光客慣れしているのと両方あるのだろうが、一人旅の身としては本当にありがたかった。
 ホテルに着いたのは夕方で、そろそろお腹も空いてきた頃であった。近くにテグクダン(太極堂)という老舗のパン屋があるらしいので、そこに行く。食パンの間に卵を挟んでベーコンで巻いてこんがり焼いた卵パンというのにする。レジで「袋はいりますか?」というのが分からずきょとんとする(これだよ〜と現物を示してもらった)。

クッキーの中央にオレンジのジャムが乗っている

テグクダンで買ったおやつ

 ところでこの卵パン、持った瞬間に「重い……!?」と動揺したズッシリパンだった。食パンの間にゆで卵にマヨネーズを和えたものやコーンなんかがぎっしり入っている。コメダピザトーストみたいなボリュームである。味は甘じょっぱい。パンも中身も甘めで、ベーコンが塩味を足している。私はパンが好きなので、この先の朝食は(時に昼食も)ここで買うことになる。ここのパンは全体的にボリューム大きめであった。ロールケーキすらでかい。
 しばらく休憩してからイチョンへ向かう。国立中央博物館のホールでミュージカル「ラフマニノフ」を見た。滞在中はぶかま以外も色々見たいなと思っていたのだが、1日目に何を見るか決めかねていたところ、たまたまD列にキャンセルが出ており、ここに決めた。
 国立中央博物館は小高い丘の上にあり、ホールの入り口は博物館の吹き抜けを突っ切って階段を登ったところにある。登るとだだっ広い空間の向こうに夜景とタワーが見えて面白かった。翌日昼間に行ったところ、手前の空間は原っぱで、その先に山とタワーがある。写真を撮ればよかったと思う。

Today's Cast/안재영-라흐마니노프 임병근-임병근/김여랑-피아니스트+アンサンブルキャスト

キャスト表

 なおこの日のラフマニノフ役のアン・ジェヨンさんは前回までのぶかま公演でイワン・カラマーゾフ役にキャスティングされており、先に述べた配信でその姿を見ることができた、「わたしの心をめちゃくちゃにしたハチャメチャ歌うまお兄さん」(真魚さん談)である。真魚さんだけでなく無論私の心もめちゃくちゃになっている。
 ホールにもともとあるのか演目に合わせたのかは分からないが、グランドピアノが置かれており、開演前にピアニストの方が「Merry Christmas Mr. Lawrence」を演奏していた。少し前に坂本龍一氏死去のニュースが流れていたのだが、演奏を聴きながら、本当にあの人亡くなったんやなあ、としみじみしたりした。
 「ラフマニノフ」は直前に行くのを決めたのもあって予習時間が足りず、あらすじだけ確認して臨む。本編はフレーズや単語がところどころ聞き取れる、みたいな感じで、曲調とあらすじと実際のエピソードをつなぎ合わせてなんとか話を追っかけた。
 アン・ジェヨンさん演じるラフマニノフは、冒頭での公演失敗から人間不信気味になっていて全然心を開かないものの、生来の人懐っこさが端々から滲み出ている……という感じの人だった。ニコライ・ダーリ役イム・ビョングンさんは、この公演で初めて知った方なのだがめちゃくちゃ「ええ声」なのである。ミュージカル俳優を捕まえて「ええ声」も何もという感じではあるのだが、クラシックホールで聞く歌は格別であった。ダーリ先生は、人当たりはいいが野心家なところがあり、最初の方はラフマニノフを見る目がちょっと怖いなと思ったりした。だからこそ患者と主治医ではなく一人と一人の友人として出会い直すところはグッとくる。最後のとこどんな顔して見てたのよあなた……。
 ところでこの日の公演はカーテンコールが撮影できたのだが、本編とシームレスにつながっていてちょっと焦った。その上本編にないシーンが入る。ぶかまもそうだが韓ミュではこれが一般的なんでしょうか? 『新しき世界』で言うと「六年前、ヨス」がカーテンコールになっている感じである。
 公演が終わると雨が降っていた。

突劇金魚『罪と罰』を見にいきました

 ドストエフスキーのおたくなので突劇金魚の『罪と罰』の舞台を見に行った。大阪の芸術創造館で、3/2〜3/5まで公演をしている。

kinnngyo.com

 小説家の北野勇作氏がマルメラードフをすると言うことで、「それは見たいやろ」と見に行った。大変良かった。

 チラシにある相関図がめちゃくちゃ分かりやすいのでしおりとかで欲しい。

 

 ドストエフスキーの後期長編は大体長い。『罪と罰』も上下巻で500gくらいある(新潮文庫の場合)。それが3時間に、削られているシーンはあるがダイジェストにならず、むしろ忠実に舞台化されていて、第一幕の半分も行かない前にもう来て良かったと思った。

 先述の通りレベジャートニコフや追善供養、ソーニャによるラザロの復活の朗読等、削られている部分もあるが、これによって主人公ラスコーリニコフを中心とした心理サスペンスという部分がくっきりしたと思う。主に原作にあった概念的乱闘シーンというか、滑稽と悲哀が目まぐるしく入れ替わり、ひっくり返るカーニバル的部分がなくなった分、より緊張感や対峙の緊迫、ラスコーリニコフのキリキリした所が鮮明に描かれていた。

 マルメラードフが身の上話をするシーンでは、何か言うたびに周りの酔っ払いが哄笑する。マルメラードフはまじでどうしようもない飲んだくれで、無職で何もかも質にいれて酒代にしてしまい、娘ソーニャを娼婦に落とし込んだ上にそのソーニャの稼いだ金まで呑んでしまうという本当にどうしようもないおっさんである。マルメラードフの話の中のソーニャごと、酔っ払いは嘲笑う。冒頭すぐにあるこのシーンはマルメラードフの痛々しさがグッと際立っていた。

 

 舞台ということで、全員当たり前だが生身の身体を持っているのだが、スヴィドリガイロフの「ラスコーリニコフの影」という部分が視覚的に見え、またスヴィドリガイロフがだいぶ「ヤバい人」のオーラを醸し出しているので、本当に怖かった。ラスコーリニコフがソーニャを責め立てるために言った言葉をそのまま繰り返すシーンなどはゾッとした。

 スヴィドリガイロフは、チラッと出てきた瞬間から「スヴィドリガイロフだ……!」というオーラが出ていてよかった。初登場シーンはちょっと人間離れしているというか、悪魔っぽい。一方ドゥーニャに「服の裾に接吻させて下さい」とすがるシーンとかめっちゃ気持ち悪くてよかった。

 スヴィドリガイロフは舞台の上で人間になったり悪魔になったりする。ラスコーリニコフを責め立て、その言葉を繰り返し、一方でドゥーニャに懸想して破滅に向かう。なるほど人気のキャラクターだと思った。推しのキャラは別にいるが推しの俳優にやってもらうならスヴィドリガイロフ、みたいなとこありません?

 

 悪魔といえば、ラスコーリニコフの見ている幻なのか、蜘蛛みたいな生き物? が出てきて、コツコツ床を叩く。最初は小さく、物陰から出てきた彼らは、後半には大人の背丈になって、堂々と歩く。原作では、ラスコーリニコフはやたらと歩き回り、悪夢を見て、ぐるぐる葛藤するのだが、舞台では歩き回るというのが難しい分、ラスコーリニコフの恐れや精神的な緊張や疲労が、こう言う形に置き換えられているのかなと思った。不気味でよかった。

 なお、昔同縮尺の地図を重ねて調べてみたことがあるのだが、ラスコーリニコフがうろついているセンナヤ広場〜下宿はだいたい泉の広場から地下鉄梅田とJR大阪の間くらい、ソーニャの家は大丸梅田あたり、老婆の家はハートンホテル付近の線路上だった。結構狭い範囲をうろうろしているようだ。

 

 ラスコーリニコフとソーニャがお互いを憐れみ、抱きしめ合うシーンは、あまりにも二人が心許なく見えてこっそり泣いた。

 舞台セットは段差があり、上は大きく空いている。その一番下の段のところで、しゃがみ込んでお互いを抱きしめて泣いている二人は、周りの空間に比して小さく頼りなく、痛々しく見えた。

 舞台を見ていて思ったのは、経済的に追い詰められたりしていても殺人はやはり自分の意志であり、ポルフィーリィやスヴィドリガイロフ、ソーニャによる働きかけや追い詰めがあっても、自首はラスコーリニコフ自身の意志である、という点が重要なのかなということである。

 ラスコーリニコフは作中で様々に考えを翻す。慎重にやろうと思ったかと思うとやけになったように犯行を仄めかす。ソーニャに語る動機にしたところで、前言をどんどんひっくり返す。ラスコーリニコフにも動機の芯はわからない。しかしとにかく、それは彼が自分の意志で行ったのだ。ソーニャへの犯行告白のシーン、動揺し、声を荒げ、泣いたり怒ったりするラスコーリニコフの姿を見て、彼はそこにこだわっているのではないかと思った。

 ポルフィーリィからは容疑者として疑われ、スヴィドリガイロフからは脅しめいたことを言われる。ソーニャには犯行を告白し、憐れみと倫理の訴えかけを受ける。ラスコーリニコフは物語の中で様々に揺らがされ、ふらふらになり、何度も意志を翻す。自首のシーンでは、十字路に接吻しても告白は出来ず、警察署に行って、一旦やめてからまた戻り、犯行を自白する。ぐわんぐわんにあっちからこっちへ動揺しまくった一人の人間が、最後に自分の意思でそこに到達するのが『罪と罰』という物語であり、その後の回復は、また別の物語なのである。

 何度となく読んだ物語であるが、舞台の上で歩き、話し、ふて寝し、対話するラスコーリニコフを見ていると、彼の動揺の生々しさをひしひしと感じた。動揺して、揺らぎ揺らがされ、自分でも訳の分からないままに走っていく、先の見えなさ、分からなさ、ラスコーリニコフの今まさに直面している経験を、3時間のうちに自分も一緒に生きた。とても真新しい形で、もう一度『罪と罰』に出会い直すことができたように思う。

 

 原作の火薬中尉ことイリヤ・ペトローヴィチは、本作では巡査的な立ち位置になっているのか、制服を着て、督促状を持ってくるところ以外あまりラスコーリニコフと絡まない。実は原作でラスコーリニコフが火薬中尉に自首しようとこだわるのがよくわからなかったのだが、舞台を見ていて何となく滲み出る「良さ」を感じ、「えっ、そういうこと? そうなのドストエフスキー?」と百年以上前に物故した作者に話しかけていた。

 舞台に話を戻すと、ラスコーリニコフ心理的な葛藤の檻が、イリヤ・ペトローヴィチへの犯行の告白によって破られたような感じがした(告白後のラスコーリニコフに椅子を差し出すというシーン、良き改変だった)。彼はラスコーリニコフ心理的葛藤劇とはほぼ無関係である。その外側にいて、彼は彼で生活をしたり仕事をしたりしていた。彼への犯行告白は、自分の思想に従い、行動に悩み、自身の内側の世界で生きていたラスコーリニコフが市井へと出てくる、その象徴でもあると思った。舞台のイリヤ・ペトローヴィチは何となくフレッシュな感じがして、そこもよかった。その後、話は容疑者の逮捕だったり裁判だったり、そういう手順の決められた秩序ある場所へと移るだろう。ラスコーリニコフの改心は、原作でも舞台でも、その入り口まででその後のことは描かれていないのだが、『罪と罰』という物語と、「その次」の描かれない話への橋渡し的な部分であったように思う。

 

 あと私はポルフィーリィが推しなので、ポルフィーリィがかっこよくて良かったです。

 ラスコーリニコフが話している間、ポルフィーリィが実は結構鋭い目で見ていたりとか、そういうのも舞台の醍醐味であった。

 心理的サスペンスと言ったが、それと同時に『罪と罰』は犯罪サスペンス劇でもある。ポルフィーリィが只者じゃない、怖さを秘めた人間でないとサスペンス性は半減してしまう。本作は飄々としていてなかなか食えない人っぽくてよかった。ザ・善人のラズミーヒンと親戚というのが信じ難い(と言っても遠縁だが)。

 ラズミーヒンと言えば、原作ではエピローグで紹介されるラスコーリニコフが火事の中から子供を助けたというエピソードが、本作ではラズミーヒンの口から語られるのだが、その報道記事を手帳に挟んで持っていて、友達の記事を常に持ち歩いている奴みたいになっていて面白かった。わかる、ラズミーヒンはそういう奴だよ……。『罪と罰』中巻(ない)にもそんなシーンがあったと思う(ない)。

 

 ところで、私は趣味でドストエフスキー紹介パンフレットを作成している。今のところ『罪と罰』と『悪霊』が公開済みだ。ざっくりしたあらすじと人物相関図、あいうえお順人名表が載っている。よろしければご活用ください。

 

www.dropbox.com

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私とBLと俳句と短歌 ―あるいは、 #BL短歌 #BL俳句 における欲望について―

2022/10/22 この原稿は、2017年11月発行の『庫内灯』第三号に掲載していただいたものです。

外山一機氏により「BL俳句という可能性」『俳句 2021年12月号』(特集 必読の俳論1970-2020)で取り上げていただきました。

https://www.kadokawa.co.jp/product/322011000108/

また、以下の記事では触れていませんが、タグの参加者や『庫内灯』『共有結晶』参加者は、オンライン・対面を問わず大小様々なハラスメント(「説明」を求めるものから単純な恫喝まで)に遭遇しており、この記事はそうしたものに抵抗するものとして書いた側面があります。

ハラスメントについては、現在高松霞氏がプロジェクト「短歌・俳句・連句の会でセクハラをしないために」を立ち上げ、各団体へアンケート調査をされております(回答は締切)。こちらのプロジェクトの成功をお祈りしております。

 2022/11/06追加 上記プロジェクトの各結社回答が掲載されました。

 短歌 https://note.com/kasumitkmt/n/n462a33ed91d7

 俳句 https://note.com/kasumitkmt/n/na16b9f7e9db2

 連句 https://note.com/kasumitkmt/n/n3881034e1210

正井はトランス差別に反対します

 

 

 

※ 本稿は二〇一七年三月十四日に発表したnote「私とBLと俳句と短歌」[i]を加筆・訂正したものです。

 

 なぜBLなの、と尋ねられます。あるいは、なぜ彼女らはBLを好むのか、と言った分析はしばしばツイッター上ですら流れてきます。

 しかしながら、ある物語に何を求めているのか、明確な答えを持つ人の方が少ないのではないでしょうか。それは現実逃避だったり共感だったりするでしょうし、言葉で明確に指し示せるような、たった一色の、不変のものであることはほとんどないでしょう。「なぜその物語が好きなのか」という問に答えるのは非常に困難です。

 ひとまず本稿では、なぜそれが好きなのか、を問うのをやめたいと思います。物語は欲望と結びつきます。BLというジャンルが成立しているのは、それを欲する人々がいるからです。

 一方で、欲望とは個人的なものですから、共通の答えを探すのは難しい。ある物語が好きな理由について、全員に共通する答えはないし、一人の中でも一つに限定されるものではなく、様々な思いが濃淡をもって混じり合っているものなのです。

 さて、BLが個人の欲望に根ざすものならば、BL短歌、BL俳句における欲望のあり方とは、どのようなものだったのでしょうか。この問について、以下ではBLに関する先行研究を確認した上で、『庫内灯』、および『共有結晶』の執筆者による発言を中心に整理していきたいと思います。

 

先行研究の概観

 なぜBLが存在するのかを問う先行研究について、本章では、金田(二〇〇七)の分類に従い、①心理学的やおい[ii]論②ジェンダー論的やおい論の二つに大別して、その概要を述べたいと思います。ここで言う「やおい」とは、BLの別称です。

 ①心理学的やおい論とは、なぜ女性達は「やおい」が好きなのか、という問に対するものです。中島梓(一九九一)『コミュニケーション不全症候群』等、女性性にまとわりつくマイナスイメージから距離をとり、なおかつ性的な物語を自分とは切り離し安全に享受するための装置としてやおいを見るものです。金田(二〇〇七)で指摘されているように、これらの多くはやおい愛好を解決すべき問題として取り扱う点に問題がありました。

 これに対し、②ジェンダー論的やおい論とは、社会の成員である女性にとってやおいとは何かを問うものです。これは、社会のジェンダー秩序に注目し、「やおい異性愛秩序を再生産するものなのか、それとも異性愛秩序への抵抗や撹乱なのか」[iii]を主題とします。溝口(二〇一五)で指摘された「定型BL」が異性愛秩序を再生産するもの、「進化系BL」が抵抗や撹乱をするものに当たります。しかしながら、金田氏も指摘するように、同一の表現を性別規範の再生産と見るか抵抗と見るかは、論者によって意見が分かれています。

 以上、非常に駆け足かつ表層的にですが、BLに関する先行研究を確認しました。いずれも「なぜ」に対する完璧な答えを用意するには至っていません。しかしながら一つ言えるのは、小谷(二〇〇七)の指摘するように、BLとは「とにかく女性の欲望にのみ忠実」[iv]だということです。

 欲望は個人によって異なります。永久保陽子(二〇〇五)『やおい小説論』は、複数のBL小説について、登場人物の容姿を分析し、それが〈受〉=ジェンダー的女性性、〈攻〉=ジェンダー的男性性というような単純な役割分担ではなく、両方の性差的要素が各登場人物や各作品の中でブレンドされつつ配置されているということを明らかにしました。藤本(二〇〇七)では、こうした様々なジェンダー的要素を組み合わせ、自分の好みのカップリングを選べることこそがBLの重要な点ではないかと指摘しています。藤本氏は、よしながふみ氏の「女の人の抑圧ポイントは一人一人違う」という言葉を引用し、BLとはジェンダー的拘束による凝りをほぐす「オーダーメイドのツボ押し器のようなもの」[v]だと論じています。

 無論、BLは抑圧の解放装置というだけのものではありません。そういう側面がありつつ、楽しむ理由は、他のジャンルと同様に読む人の数だけあります。本稿では、BLが、その発生当初から女性の様々な欲望をすくい上げ続けてきたということを再度強調しておきたいと思います。

 以下では、BL短歌やBL俳句における欲望のあり方について、『共有結晶』と『庫内灯』周辺における発言を確認した上で、BL短詩における一人称のあり方、BL短詩の読み方について考察し、これらBL短詩の外側である言語芸術の側の発言を検討し、論じていきます。

 

「自分以外の何かになる」

 二〇一二年、 ツイッターで#BL短歌というタグが生まれました。同年、タグを作成した佐木綺加氏を編集長とし、BL短歌合同誌『共有結晶』が創刊されました[vi]。これは途中で編集長を平田有氏に交代しつつ、vol.1〜3および別冊を含めた計四冊が頒布されました。

 さらに、『共有結晶』寄稿者の石原ユキオ氏によって#BL俳句タグが広められ、二〇一四年にBL句会が催されました。二〇一五年には『共有結晶』寄稿者の佐々木紺氏を編集長として、BL俳句誌『庫内灯』が創刊されました。

 これら二つのBL短詩同人誌においては、キーワード的に繰り返されてきた言葉があります。以下では、そのうちの一つ、「自分以外の何者かになる」ということに注目していきます。

 「自分以外の何者かになる」ということについて、『共有結晶』vol.1・2の編集長佐木綺加氏は、vol.2の対談で以下のように発言しています。

 

BLのキャラクターって二次創作でもなんでも、「少し自分」じゃないかと思うんです。(中略)少年、青年、おじさん、虫とか無機物まで、どこかに共感するところを見いだせるから、BL短歌を詠めば「何にでもなれる」んだ、というふうにいいました。[vii]

 

 ここでは、キャラクターに対する共感が、男性だけでなく「虫とか無機物」に拡張されていることが注目されます。「自分以外の他者」としての男性を軸に、「他者」の領域にヒト以外の生き物までも含めているのです。

 また、『庫内灯』一号編集長の佐々木紺氏は、編集後記で以下のように述べています。

 

BL俳句で指したい「BL」にはリアル〜美少年愛、場合によっては男女や女女、性別不詳同士の関係も含まれると思っています。(中略)私個人としてはヘテロではない関係性のことをBLと呼びたいです。[viii]

 

 ここでは、BLという言葉の指す関係性が、男性同士以外の領域にまで拡張されています。こうした発言に対する「それは(ジャンルとしての)BLなのか」という批判はもっともでしょう。しかし、ここでのBLは、おそらく書店の棚に象徴されるような、ジャンルを指しての言葉ではありません。ジャンルとしてのBLから反転して、BLを読んだ時と同種の感情(または「恋愛物」として提示されるヘテロ恋愛の物語を読んだ時とは別の感情)が向かうものを指した言葉です。『庫内灯』二号でかかり真魚氏が論じた「男女BL」は、そうした気持ちの向かう先にいるのが男女だった時に使われた言葉ではないかと思います[ix]

 BL短歌・BL俳句は、ジャンルとしてのBL=男性同士の恋愛フィクションを足場にしつつ、それらの物語を享受する時の欲望のうち「他の何者かになる」という部分を積極的に言語化しながら、男性以外のキャラクターや男性同士以外の関係性をも取り込んできました。

 

BL短歌・BL俳句における「私」

 BL短歌・BL俳句においては、「自分以外の何者かになる」という部分に注目し、男性同士以外の関係性をも詠みこみ、読み取っていきました。以下では、BL短歌・BL俳句の作品内部における「私」のあり方について考えていきます。

 短歌や俳句は基本的に一人称の文芸です。「私」の内実については、様々議論がなされています。ただ、短歌や俳句の作中主体は特別に言及されない限り、作者、あるいは作者’ である、という考え方は、なんとなく共有されているのではないか、と思います[x]

 これに対し、BL短歌・BL俳句では、作る場合も読解する場合も、作中の「私」は作者本人とは別人だということが前提になっています。そこにいるのはフィクションの「私」です。ただしこれは全くの別人ではなく、佐木氏が指摘しているように「少し自分」が含まれることがあります。

 この「少し自分」には、大きく分けて二種類あります。一つ目は、「ありえたかもしれない自分」や「切り捨てざるを得なかった自分」が含まれる場合。もう一つは、自分の中に住み着いた他者、つまり「萌え」の対象である場合です。

 一つ目、「切り捨てざるを得なかった自分」について、佐々木紺氏は、BL俳句への批判に対し、自身のnoteで以下のように述べています。

 

戸籍上女性であり男性と結婚している私は世間からみるとシスヘテロ女性で、生活の大部分でそう扱われている。しかし性自認は未だに不安定で波があるし、好きになる人は女性であることの方が多い。当然のようにシスヘテロ女性として扱われるとき、痛む瞬間がある。そこにBL俳句や短歌という形は合っていて、表現するとき自分の傷に直接は触れず、それでいて現実と戦うとき確かな支柱のようになるときがある。[xi]

 

 ここで語られているのは、「切り捨てざるを得なかった自分」に対する痛みと、それに寄り添うものとしてのBL俳句・短歌です。人は社会の中で生活する生き物です。そこでの「私」の輪郭は時に他者によって決められます。私の一部でありながらも、他者から志向される「私」に入れられなかった、いわば小数点以下として切り捨てざるを得なかった自分を、一種の他者として言葉の中に蘇らせること、それがここで言われるBL短歌やBL俳句というものではないでしょうか。

 いやBLってもっと楽しい読み物だよ、という人もいるでしょう。私自身、「もっと楽しい読み物」としてBLを読むこともあります(後述)。しかし、前述したように、BLは個人の欲望と結びつくものであり、欲望とは、個人の中でもグラデーションや濃淡を持って抱えられています。佐々木紺氏のこの発言は、欲望のグラデーションのうち「自分以外の何者かになる」という部分に焦点をあて、社会に規定されざるを得ない自分からの飛躍を試みたものではないかと思います。

 「もっと楽しい読み物」としてのBL短歌・俳句における「私」とは、二つ目の「少し自分」、「萌え」の対象でしょう。萌え、という感情は説明が難しいです。これも個人の欲望に深く関わり、人によって定義が変化するのではないでしょうか。萌えの対象は私ではない他者であるにもかかわらず、私の頭の中に居座り、いつの間にかそのキャラクターのことを考えていたりします。

 二次創作の営みの中には、漫画や小説といった作品の形にならない段階として、「考察」というものがあります。例えば、キャラクターの発言や行動からその心理を分析するようなものから、ご飯を食べる順番は、というような日常的なものまで、様々な形の考察が日々出力されています。

 こうした考察は、一種の妄想とも言えますが、いたって真面目になされています。むしろ、真面目に考えざるをえない――対象について、真剣に考えるのをやめることができない。この時点ですでに、私の中には、他者としてのキャラクターが住み着き、その輪郭が出来上がっています。同様のことは、二次創作だけでなく、創作のキャラクターにおいても言えます。同様の考察は、例えば本編には描かれない裏設定として作者から明らかにされることもあります。BL俳句やBL短歌、あるいは二次創作俳句や短歌における「私」とは、こうした見つめざるをえない他者としてのキャラクターではないかと思います。

 私の中の他者、つまり切り捨てた私や萌えの対象は、私とは全くの別物として存在するのではありません。切り離さざるを得なかった私、あるいは何かの物語を享受したときに深く感銘を受けて私の中に胚胎したキャラクターを、作者としての私の対岸に置いて見つめたもの、これがBL俳句や短歌における「私」ではないかと思うのです。

 

#BL短歌 #BL俳句

 以上、BL俳句やBL俳句における「私」のあり方について述べてきました。本章では、その受け取り方に注目して論じていきます。

 BL短歌やBL俳句においては、時に読者の存在が強調されました。それは、享受者がいて初めて成り立つ、というだけではなく、受け手が積極的に自分の「萌え」にひきつけて解釈し、それを表明することを推奨するものでした。

 『庫内灯』一号の巻頭言で、石原ユキオ氏はBL俳句の読み方について次のように述べています。

 

例えば「砂浜」が登場したら、幼い頃毎年海水浴に行った砂浜、縞の水着を着た少年が物憂げに佇むベニスの砂浜、繊細な点描で表現された漫画の中の砂浜など、二次元から三次元までいろいろな砂浜を思い浮かべながら、いちばんぐっとくる砂浜はどれか考えてみてください。

 そうやって何らかの情景が思い描けたら、次にその情景の前後のストーリーを妄想してみましょう。好きCPをあてはめるのもいいと思います。[xii]

 

 これは、書かれてあるものを、自分の読みたい方向に解釈することを推奨するものです。裏を返せば、どういった景を描くのか、作者側が責任を持たない、という風にも読みうるでしょう。

 こうしたあり方について、それは作者の怠慢ではないか、との批判がありました。タグがなくても男同士だとわかるようにすべきだという意見や、タグづけによって読みがせばまるのではないかという意見もありました。一面から見れば、その可能性もあるでしょう。

 これらの批判は、俳句や短歌を作ることで何を描きたいのか、についての意見の相違に起因しています。BLと言うからには男同士の何かを描くのが主眼ではないかと思われがちなのですが、少なくとも『共有結晶』や『庫内灯』においては、それは最優先の、ジャンルを決定づける要素ではありません。俳句や短歌が一人称を基本とするのであれば、#BL短歌や#BL俳句という場所で優先されているのは、男同士を描くことよりも、「私の中の他者」の感情を描くことであると言えます。そして、読む側にとっては、「私の中の他者」の感情を言葉によって共鳴させ、揺らがせることだと考えられます。

 ここで重要なのは、BL愛好者の間では「私の中の他者」がどのようなものなのかは、人によって違う、あるいは、違うということが、一応は前提として共有されているということです。これは「自分の萌えは他人の萎え[xiii]」という言い回しに端的に表れています。萌えツボは人によって違うのだから、例えば二次創作作品のような、他人の解釈の結果について、正誤や優劣の判断を下すことは、大いに忌まれる行為なのです。

 BL短歌・BL俳句が発生したフィールドがウェブ、特にタグを使って他者の言葉を自分のものと等質に一覧することのできるツイッターであるという点は見逃せません。詠む・読むだけではなく、タグ・お気に入り・RT・リプライという動作が、すでに#BL短歌、#BL俳句という形式の中には含まれています。お気に入りやRTをした時点で、それは投稿者自身ではなく、他の人にとっての「萌え」、つまり、その人にとっての「私の中の他者」にひきつけられて理解されています。その理解のあり方について、正誤や優劣を問うことは、野暮な、時に暴力的な行為なのです。

 BL短詩がタグをつけて出力される際、詩歌の「私」を一旦自分ではない他者として設定するだけでなく、石原ユキオ氏の巻頭言の「好きCPをあてはめるのもいいと思います」という記述に見られるように、それが読者にとっての「私の中の他者」に引きつけて理解されることまでも半ば想定されています。作中の「私」が作者とは別物であるという前提だからこそ、読者が「私の中の他者」に引きつけて読むことができるのです。

 ただし、このことは、作者の放任を意味しません。石原氏の巻頭言でもあるように、「砂浜」と書かれていたら読者は砂浜を思い描きます。テキストに書かれていることを無視することはできません。巻頭言や『共有結晶』『庫内灯』で行われていたのは、一般に蓋然性の高いとされる読みよりも、読者独自の、つまり「私の中の他者」のための肉付けを前面に出すこと、およびそうしていいと繰り返し告げること、ではないかと思います。

 BL俳句やBL短歌では、一人称が作者個人とは切り離されています。さらに、作品を、他の人にとっての「私の中の他者」に引きつけて読むことが推奨されています。ただし、これは読解の放任に直結するものではなく、読者独自の肉付けを勧めるものでした。

 

「公共性」?

 こうしたあり方に対し、BL俳句を何らかの形で俳句の中に位置付けようとする動きが見られました。しかしながら、これらの位置付けには問題があるように見受けられます。なぜなら、BL俳句やBL短歌は言語芸術としての俳句の内部から発生したものではないからです。

 まずは言語芸術において、どのようにBL俳句が位置付けられたかを見ていきます。BL俳句について、福田若之[xiv]氏は、「公共性」という言葉を用いて説明しました。福田氏は、「BL俳句が客観的な必然性を持たずに書かれているということは、(中略)それに理由もなく惹かれてしまう個人のかけがえのなさによるものであることを示している。」[xv]とした上で、「BL俳句に欠けているものがあるとすれば、それは「現実」ではなく、むしろ、「公共性」ではなかろうか。」[xvi]と論じています。「公共性」のある俳句とは、福田氏の定義によれば、「「みんな」(仲間の「みんな」ではなく、誰でも「みんな」)というものの実在を信じて、その「みんな」に等しく共有されることに価値を置く類の俳句」[xvii]となります。

 この「公共性」という言葉を用いることによって、BL俳句の特徴が明らかになりました。ただし、「公共性」について、確たる定義がなされていないことは問題でしょう。さらに問題なのは、この論は「公共性のある/ない」という対立軸にBL俳句を位置付けることになるという点です。このことは、「公共性」という言葉を肯定的に見るにしろ否定的に見るにしろ、言語芸術としての俳句におけるヒエラルキーにBL俳句を巻き込んでしまう結果となりました。

 例えば、久留島元[xviii]氏は、「私」の対比としての「公共」の欠落がBL俳句の特徴だとした上で、福田氏の問題提起を以下のように解釈しています。

 

特殊な「個」へ(しか)届かない、届けようとしない表現行為があるとすれば、それは通常の、広く読者を求め、多様な読みを歓迎する作品の在り方とは異質の行為であるし、そうした小さな「私」(個)を超えた表現行為への希求こそ、これまで俳句の重視してきた、たとえば「写生」などの姿勢ではなかったか。[xix]

 

 久留島氏はここで、一方の極に「公共」、もう一方の極に「私」(個)を置き、その対立軸においてBL俳句の特徴を論じています。こうした論じ方には、「私」(個)の超越を目指す言語芸術としての俳句の中にBL俳句を位置付けようとする姿勢がより顕著に現れています。しかし、BL俳句の作者・読者を言語芸術の内部に位置付け、評価することは妥当なのでしょうか。というのも、BL俳句とは、例えば前衛俳句のように、言語芸術としての俳句の内部から派生したものではないからです。

 今まで見てきたように、BL俳句・短歌は、俳句や短歌の形式を持ちつつ、BLジャンルにもまたがって展開されました。「公共性に欠ける」という見方は、あくまでも言語芸術の内部から見た一側面であるということは、もっと注意されていいと思います。そして、言語芸術としての俳句の外側から見れば、これらで指摘されているBL俳句の特徴は、特別に奇妙なものではありません。

 例えば、久留島氏の指摘した「特殊な「個」へ(しか)届かない、届けようとしない表現行為」を求めること、つまり、テクストと自分とで一対一の関係を結び、意味を見出そうとすることは、現代人がテクストに向き合う姿勢としては奇異なものではなく、むしろ一般的ではないでしょうか。

 前田(一九六九)は、日本において近世から近代に移行する際、読書のあり方がどのように変質したのかを、印刷技術の発展と関連付けて論じています。前田氏は、読書とそれによる人格養成の過程において、近世期では漢文の素読に代表されるように、キャノン[xx]とされた書物を共に読み、共通の価値観を共有していたのに対し、近代においては、個人が自分の選択した書物に向き合い、独自の意味を見出し、自己の信念を形成するというあり方へ変化したと指摘しました。前田氏は、読書のあり方が変質した背景として、活版印刷による印刷物の流通量の増大と、テクストの享受方法が音読による共有から黙読による個人的な読書へと変化したことを挙げています。

 現代では、娯楽としての読書においても、黙読による個人的な享受という方法は深く根付いています。自ら選択した書物に個として向き合い、意味を見出すという方法は、現代の読書としては一般的でしょう。久留島氏のいう、BL俳句の読者の「「個」としての読者の「私」と、「個」である作品・作者の「私」との出逢いを、ドラマティックに盛り上げ、奇跡として語る」[xxi]という姿勢は、テクストに対して読者個人が自分にとっての意味を見出そうとしているという点で、近代読者的なあり方であると言えます。

 ここで重要なのは、BL短歌・俳句においては、そうした読み方を選択したということです。テクストに対するこうした姿勢は、BL俳句・短歌を作り読んでいる層には、結社や句会に参加したことがない人が多いという、いわば成員の未熟さによるものではないかという意見もあるかもしれません。しかし、むしろ、前章に引用した石原ユキオ氏の巻頭言に見られるように、ここではそうした読み方を修正するのではなく、推奨しています。

 藤本(二〇〇七)でも指摘されているように、BLそのものが「小さな私(個)」のためのジャンルでした。そもそも、公共性があるということは、普遍性があるということではありません。何をもって「公共性がある」とするかは、その共同体において形成された暗黙の了解が前提となります。そして、ある表現について「公共性がある」とするその了解は、しばしばその共同体のマジョリティにとっての「公共性」であることがあります。「小さな私(個)」とは、まさにその既に規定されていた「公共性」にそぐわない人々が自己を落ち着けざるを得ない場所ではないでしょうか。

 BLは、一般社会(つまり男性が優位である社会)に流布する物語において、女性表象が多くの場合限定的な役割で描かれているという状況の中、その状況に明確なカウンターとしての姿勢を打ち出すのではなく、女性表象を一旦隠し、男性の身体(あるいは少年愛における女性以外の身体)でもって選択肢を示すという方法で読者を獲得してきました。一般的な(「公共性」があるとされる)物語に締め出されてしまった人々は、相対的に「小さな私(個)」とならざるを得ません。そうした「小さな私(個)」の欲望を掬いとるためには、近代読者的な方法の方が相性がいいのです。

 BL短歌やBL俳句は、言語芸術とは別のルールを共有して生まれました。言語芸術の側の人々から指摘された、BL俳句における「公共性」の欠如は、別の面から見れば近代読者的なあり方だと言えます。それは、BLが「小さな私(個)」のためのジャンルだからこそ選択された方法です。

 

参加するということ

 BL俳句短歌の読者は近代読者に近いとするこの見方には、まだ問題があります。タグへの参加という側面が抜け落ちている、という点です。

 ツイッターでは、ハッシュタグ(#)機能によって、あるテーマにそった投稿をまとまった形で閲覧することができます。ユーザーは、投稿にタグをつけたりタグにそって閲覧したりして、そのテーマに参加することになります。

 #BL短歌や#BL俳句への参加に際し、明文化されたルールがあるわけではありません。「BL」と「俳句」という二つの言葉から、参加者はそれぞれの思うBLとそれに対する萌えを短歌や俳句の形にし、TLを見る・お気に入りにいれる・RTする等の形式で評価し、交換しあいます。

 ここにもテクストと読者の関係があるのですが、近代読者とは違い、この関係は一対一で閉じているわけではありません。投稿に対するリプライや、それらの俳句・短歌を基にした作品(「解凍」[xxii])等の様々な読みは、また別のユーザーがRTしたりリプライをつけたりすることによって作者―読者の一対一の関係の外側へと広がっていきます。#BL俳句や#BL短歌は、一方で個別の読みを求める近代読者的な享受方法をとりながら、他方でそれがテクストと読者のクローズドな関係に終始するのではなく、他の作者や読者(参加者)へも開かれている、という点に特徴があります。

 公共性、という言葉によってBL俳句を評価する時、真っ先に抜け落ちるのはタグへの参加の楽しみです。作ってTLに流してRTして鑑賞して……という一連の動作全て、つまり参加することそのものが、#BL俳句というものに含まれます。そうすることの楽しみも含めて#BL短歌や#BL俳句は存在しているのです。

 なぜ、『共有結晶』には「共有」という語が入っているのか。そして、なぜ『庫内灯』がそのように名付けられたのか。公共の対立項としての私の領域にこの運動を位置付けて見るとき、その理由と重要性は見えなくなります。

 庫内灯編集部の実駒氏は、『庫内灯』という命名について、自身のツイッターで以下のように述べています。

 

〔…〕真っ暗な台所で、おなかがすいてかなしい気持ちのまま冷蔵庫を開けたら、あたりがぱっと明るくなる、あの感じ 「庫内灯」が、手に取ってくださった方にとってそういう存在になれたらいいなあ[xxiii]

いつか、世界にひとりぼっちのような気持ちでいる遠くの誰かに「君はひとりじゃないよ」というメッセージを届ける灯台のようなものを書きたい、という長年の願いがすこし叶ったように思えてうれしい[xxiv]

 

 「自分以外の何かになる」に述べたように、BL俳句・BL短歌とは、そこを足場にして「それ以外」の関係性をもその領域に含めようとしてきました。それは、BLそのものが、「それ以外」、つまり、女性の身体を持つ「私」以外の可能性や、あるいは恋愛ものと言った時に落とし込まれる男女のロマンス以外の可能性を提示してきたからです。BLというジャンルが、まさに新しい可能性の存在が示されていた場所であったからこそ、『共有結晶』や『庫内灯』では、そこを足場として、そこから先へ飛躍しようとしていたのです。

 #BL俳句や#BL短歌は、そうした可能性を求める人々の存在を可視化し、自分に見えた可能性をお互いに交換することを可能にしました。あるいは、もっと単純に、そういう創作をしたいという気持ちを持つ人々がいること、同好の士がここにいるということを示して見せました。ツイッターというツールを使い、#BL短歌や#BL俳句は、「小さな私(個)」の領域に押し込められていた人々の再会の場の役割を果たしたのです。

 

さいごに

 BL短歌・俳句では、BLの「自分以外の何者かになる」という点が注目され、男性同士に限らない様々な関係性が詠(読)まれてきました。これらにおける「私」とは、作者本人ではなく、「切り離さざるを得なかった自分」や「自分の中に住み着いたキャラクター」としての他者です。それを読者として読む時、作品をその作者ではなく、自分の中の他者に引きつけて理解します。これは、言語芸術としての短歌や俳句とは別のあり方です。このあり方を「公共」の欠落として見、私的領域にBL短歌・俳句を位置付ける時、最も見過ごされやすいのは、参加の楽しみでしょう。

 さて、私にとって、BL短歌やBL俳句における一人称が作者の私とは別人である、ということは非常に重要です。なぜなら、私が決してなり得ないものについて、私は執着し、萌えを感じているからです。強く惹かれ合うという感情自体、他人に対して発生することは、私にはほとんどありません。その感情は、他者二人の間で発生するからこそリアリティを感じられるのです。

 さらに言えば、私にとっては「私」というものがすでに半ばフィクショナルなものなのです。だから、「フィクションを書くな、お前自身を書け」と言われた時、私は戸惑いを覚えます。

 BLを、男同士の恋愛を描くもの、というジャンル的な定義に沿って理解した場合、BL小説やBL俳句を書く私に対する「お前自身を書け」という批判は、女性である私を描け、ということでしょう。しかし、私にとって、私の身体、女の性別に紐づけられた私とは、生まれた時からすでに半ば社会の所有物であり、私の実感から離れて形成されたものなのです。私はいわゆるシス・ジェンダーであり、自分の性別そのものに違和感を持ったことはありません。しかし、社会によって名指される女としての私は半ばフィクショナルなものであり、私そのものではない。私はすでに、自分にとって一番近しい他者なのです。

 あるいは「お前自身を描け」とは、その「痛み」を書け、という意味なのかもしれません。BL「なんか」に「逃げ」ないで、他者として社会に奪われた自分の痛みを書け、と。けれども、わかってもらえるように自分の痛みを書くことにどんな価値があるのでしょうか。無論、女性であることの痛みを書く事は必要です[xxv]。また、対話を求める方に対しては、真摯に応えたいと思います。しかし、自らが評価する側にいると信じて疑わない人の言う、「なぜBLか、必然性はあるのか」という要請に答える義務はないと私は思います。なぜなら、BL短歌やBL俳句、あるいはBLは、評価したい側のためのものではないからです。

 なぜ、BLなのか。

 なぜなのでしょうか。一つ言えることは、それが私にとっては切実に必要だった、ということです。#BL短歌、#BL俳句という場所を目にしたとき、ここでなら生きられると思いました。というよりも、それまでに与えられてきた物語の中で、私は窮屈な思いをしていたということに初めて気づいたのです。だから、二〇一二年の、二〇一四年の、あるいは今の私にとって、ここは切実に、そこにあってほしいものなのです。

 

参考文献

朝日新聞出版社編『知恵蔵』「キャノン」(執筆者:井上健朝日新聞出版社、二〇〇七

岡井隆『現代短歌入門』講談社、一九九七

金田淳子やおい論、明日のためにその2。」『ユリイカ十二月臨時増刊号 総特集BLスタディーズ』青土社、二〇〇七、四八―五四ページ

永久保陽子『やおい小説論―女性のためのエロス表現―』専修大学出版局、二〇〇五

中島梓『コミュニケーション不全症候群』筑摩書房、一九九一

藤本由香里少年愛やおい・BL 二〇〇七年現在の視点から」『ユリイカ十二月臨時増刊号 総特集BLスタディーズ』青土社、二〇〇七、三六―四七ページ

前田愛「明治の読書生活」『言語生活』二一一号、筑摩書房、一九六九、一五―二三ページ

松村明編『大辞林』第三版、三省堂、二〇〇六

溝口彰子『BL進化論』太田出版、二〇一五

BL短歌合同誌実行委員会『共有結晶』vol.1、二〇一二

 ――――vol.2、二〇一三

 ――――vol.3、二〇一四

庫内灯編集部『庫内灯』一号、二〇一五

 ――――二号、二〇一六

佐々木紺「BL俳句」

 https://note.mu/sasakikon/n/n3ccfdca085d5?creator_urlname=sasakikon

久留島元「メモ:読みの「私性」について」

 http://sorori-teizakki.blogspot.jp/2016/09/blog-post_14.html

福田若之 「松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」に応えて」

 http://hw02.blogspot.jp/2016/09/bl.html

 

[i] https://note.mu/masainos/n/na5bd97f3b422

[ii] 「女性読者のために創作された、男性同性愛を題材にした漫画・小説などの俗称。」(『大辞林』第三版)より。

[iii] 金田(二〇〇七)、五三ページ

[iv] 小谷(二〇〇七)、三五ページ

[v] 藤本(二〇〇七)、四六ページ

[vi] 『共有結晶』vol.1創刊時は谷栖理衣名義。

[vii] 『共有結晶』vol.2、八四ページ

[viii] 『庫内灯』一号、一五二ページ

[ix] ただし、二〇一七年現在、「男女BL」という呼称に対する批判と対話を経て、「男女BL」そのものはかかり氏にとって克服されるべきものとなっている。

[x] 岡井隆『現代短歌入門』二〇一ページ

[xi] https://note.mu/sasakikon/n/n3ccfdca085d5

[xii] 『庫内灯』一号、二―三ページ

[xiii] 「萎え」とは「萌え」と逆の感情を表す表現。「俗に、興ざめすること。」(『大辞林』第三版)

[xiv] 「群青」「ku+」に参加。共著『俳コレ』(邑書林、二〇一二)。なお、福田氏は「公共性」のある俳句に対し懐疑的な立場をとっている。

[xv] 「松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」に応えて」http://hw02.blogspot.jp/2016/09/bl.html

[xvi] 前掲ウェブページ

[xvii] 前掲ウェブページ

[xviii] 「船団の会」会員。『庫内灯』編集委員でもある。

[xix] 「読みの私性について」『曾呂利亭雑記』http://sorori-tei-zakki.blogspot.jp/2016/09/blog-post_14.html

[xx] 教育機関等において、偉大な、学ぶに値するとして権威づけられた作品。(『知恵蔵』)

[xxi] 注[xxi]に同じ。

[xxii] 『共有結晶』vol.2特集。

[xxiii]https://twitter.com/mkm_/status/666195467080826880

[xxiv]https://twitter.com/mkm_/status/666196402666516480

[xxv] 『庫内灯』二号に掲載されたイサハヤ氏「私の犬」は、まさにBL愛好者が希求する「彼ら」になれなかった女性の痛みを描くものである。また、手前味噌で恐縮ながら、筆者も柳川麻衣氏編集の百合詞華集『君とダンスを』に寄稿した「君は」という短編で、女性を主人公に、個人的な体験を織り交ぜつつ小説を書いた(拙著『さまよえるベガ・君は』に再録)。

#Tokyo2020 について・その3または「どうでもよさ」に抗う

 今日からパラリンピックが始まるという。信じられないことに。

 東京をはじめとして、いくつかの自治体ではすでに医療のキャパシティが飽和している。陽性者数は5000人前後で推移しているが、これは検査数の上限に達したということだろう。診断されていない陽性者はもっと多いだろう。陽性率も20%前後と依然として高いままである。

都内の最新感染動向 | 東京都 新型コロナウイルス感染症対策サイト

 それなのに、パラリンピックをやる、という。

 オリンピックも本来はやるべきではなかった。より事態が逼迫している今、パラリンピックもできる状況にない。すでに関係者からも複数の陽性者が出ているし、医療のキャパシティもとっくに限界を超えている。

 それでも、首相や都知事、政治の意思決定に関わる人びとは、やる、という。別の世界に生きているのだろうか、と嫌味が出そうになるが、そうではない。

 同じ世界に生きているが、相手を(つまり我々を)どうでもいい、と思っているのだろう。

 

 パラリンピック開催及び学校連携の観戦について、小池都知事や橋本会長は、「教育的意義」「教育的価値」を挙げた。

小池都知事、パラ開催と“学校観戦”「きわめて教育的価値が高い」(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

 マイノリティに対して「自分たちの役に立てば仲間と認めてあげましょう」という日本社会の傲慢な「寛容さ」と、子供を一個の人格を持つ他者ではなく保護=支配するコマとしか見ていないくせに恥じない教育行政や大人たちの鈍感さがこのたった一言に凝縮されている。

(とはいえさすがに都の教育委員会は委員全員がパラ観戦に反対している。)

 「どうでもいい」のだ。パラアスリートにしろ子供にしろ、自分たちにとって都合のいい一面だけを見ている。その都合のいい部分だけの、薄っぺらな、書き割りみたいな存在だと思っている。それ以外はどうでもいい。

 その「どうでもいい」は、何も橋本会長や小池都知事に限った話ではない。コロナ禍の中で暮らす我々全員に対し、政治家による「どうでもいい」が向けられている。

 

 私たちは今、災害の真っ只中にいる。

 新型コロナウイルス感染症の流行、ここ一月ほどは医療のキャパシティが逼迫していて、もし怪我や病気になったとしても治療を受けられる保障はない。これが災害でなくて何だろうか。

 

 オリンピック開催の前の7月16日、また今月17日、野党から臨時国会招集の申し入れがあってから今まで、与党である自民党は、それに応じようとしない。

 理由は「閉会中審査があるから」だというが、閉会中審査は国会よりも短時間で終わる。

 また、この閉会中審査には、河野大臣や西村大臣、田村大臣の答弁のみで、首相は出席していない。野党からの出席要求に対し、自民党は応じていない。

臨時国会、いつまで拒否するのか 説明避ける菅政権 自民改憲草案に「20日以内召集」とあるけれど…:東京新聞 TOKYO Web

 一方で菅首相横浜市長選挙には、自民党が推薦する小此木氏の応援を行なっている。

 コロナ対策のためにと組まれたはずの補正予算は、30兆円が積み残されている。

30兆円超となった21年度予算への巨額の繰越金と追加経済対策 | 2021年 | 木内登英のGlobal Economy & Policy Insight | 野村総合研究所(NRI)

 

 新型コロナウイルス感染症は、

1、無症状者でも感染させる可能性がある。

2、感染者は指数関数的に増加していく。

 という性質がある。だから検査と隔離が重要で、実際制圧に成功している国(台湾やニュージーランド等)は、これを基本戦略としている。さらに、デルタ株はワクチン接種済みでも感染する可能性がある(重症化は防げる)ため、検査と隔離の重要性はさらに高まっている。

 前回のブログでも引用したスイスチーズモデルには、個人の責任と共に社会の責任が書かれている。このうち「政府による広報と資金援助」、「迅速かつ高感度な検査と追跡」、「外出制限と隔離」の三つが本邦のコロナウイルス対策に欠けていることがわかるだろう。

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スイスチーズモデル

引用元:

The Swiss Cheese Respiratory Virus Defence

 この三つは言ってどうにかなるものではない。例えば検査と追跡は保健所の責務であるが、職員の増加やPCR検査機の購入等の体制の強化には資金がいる。どこが出すべきか、と言えば、公的機関になるだろう。

 また、外出制限と言っても、出るなと言われて出ないでいられるわけではない。仕事をしなければ生活ができず、その「仕事」にはもちろんエンタメ業界を含め、多様な業態を含みうる。経済、もっと正確に言えば生活の維持の資金獲得と公衆衛生を天秤にかけたとき、前者を完全に諦められる人はそう多くない。結果として「気をつけて暮らす」「気をつけて営業する」という選択が今あちこちで取られている。が、本来なら生活と公衆衛生の間の対立を解消するのは、政府のはずなのだ。補償が重要なのは、それが温情だからではなく、必要かつ有効な戦略だからである。

 さらに言えば、「政府による広報」の部分では、オリンピックを強行することで、感染症の流行状況のシビアさとは反対のメッセージを出すことになった。結果として、「気をつけて暮らす」ことのモチベーションが保たれなくなっている。

 1点目と2点目については、「公衆衛生なんていう得にならないことに予算を割きたくない」ということだろうか、と思ってしまう。あるいは、「外国の(というより中国・韓国だろうか)真似をしたくない、日本モデルと言えるものがほしい」というプライドのためだろうか。いずれにせよせこい。国家予算は内閣のお小遣いではない。

 3点目は、前々回のブログに指摘したように、「オリンピックをやった」というトロフィーが欲しいのだろう。利益供与もたっぷりできる。費用は国家予算だから、政府中枢の人々の懐は痛まない。

 要するに、ここでは「新型の感染症から国の全員を守る」戦略ではなく、政策決定者の「やりたさ」「やりたくなさ」が優先されている。政府の「コロナウイルス対策」は、実質的には「対策がない」も同然である。うまく行くわけがない。

 政府の仕事は同調圧力に頼った「お願い」ではない。ましてや特定の職や世代に対する恫喝でもない。「感染防御」という目標に対し、社会がうまく動くような仕組みづくりである。仕組みづくりを怠っておきながら、思い通りにならないからと罰則や名前の公表等の懲罰ばかり行おうとするのは、意味がない上に無責任でもある。

 

 私たちは、スイスチーズモデルの壁のうち、「検査と隔離」と「適切な広報と援助」という、公的機関の果たすべき責任を欠いた状態で暮らしている。

 「ウィズコロナ」という言い方は、なされるべき「公助」を欠いているということを誤魔化すに過ぎない。戦略でも何でもない。

 公衆衛生は、あるいは社会保障のような「みんな」にとって重要な仕事は、ほとんど放置され、事態がのっぴきならなくなった時点でようやく手がつけられる、という形になっている。私たちの生活、命、健康は、政府の出した「対策」全体の中で、かなりどうでもいい扱いをされている。

 

 国会を開かない、というのは、向き合わないということだ。野党に対してではない。我々日本に住む全ての人に対して、そして、自らの政治の結果に対して、である。

 政治は、特に国家レベルの政治は、ここに住む全ての人を巻き込む。そして、菅内閣の政治の結果、長引くCOVID-19の流行と感染爆発を招いた。

 菅内閣はそれに向き合い、説明しなければならない。そして、これからどうするか、現状を見ながら決定するための議論を重ねなければならない。

 それが彼らの仕事だ。

 官邸の、つまりは身内の人々でより集まり、記者会見で一方的に自陣の見解を述べることは、「今の現状」に向き合うことではない。むしろ目を背けている。

 

 国会は、選挙によって選ばれた代表者の集う場である。そして、ここで話し合われたことは日本全体に関係しうる。だから、国会での答弁は、日本全体に対する答弁である。そのため、ここで行われる言語的コミュニケーションは、議事録に記録される。

 政治の言葉は単なる予定調和ではない。今がどうであるか、そしてこれからどうするか、という事実に対する認識の積み重ねの末に一つの決定を下すための、必要な手続きである。法律を作るなら、その正当性を証明しなければならないし、欠点が指摘されたなら、それに対して必要な対処を取らなければならない。

 国会での言葉、政治の言葉は、自分とは異なる他者に向き合い、他者に対して言葉を尽くして説明をするためにある。「野党」に対して、ではない。その背後にある、与野党を含め、様々な人格・人生・利害関係を持つ、様々な他者、すなわちこの国に暮らす全員に対してである。

 そしてまた、そうした過程が公表され、公的に記録されるということは、手続きの正当性を、主権者である国民に対して説明することであり、「正当性への努力」を見せることによって、政治に対する信頼関係を築くことでもある。

 安倍内閣から菅内閣にかけて、政治の言葉を意図的に空虚にすることで、「今がどうであるか」「これからどうするか」ということ、それに向き合うということをくちゃくちゃに壊して来た。今度は、その場すら開かないと言う。

 国会を開かないということは、野党に対してではなく、この国に住む全員に対する、全ての業務上の責任を放棄しているということだ。「どうでもいい」、と。

 

 先日知って重苦しい気持ちになった事実がある。新型コロナウイルス感染症の国内死者数は、1万5000人を超えた。

 そして、十年前の東日本大震災の、震災当時の死者数は、1万5899人だ(警察庁発表)。

 あまり単純に数を出すべきでないのかもしれない。単なる数の問題でもないとも思う。けれども、私たちは今、それくらい大きな災害に襲われている。

 そしてそれは、突然来た地震と違い、避け得たかもしれないのだ。スイスチーズモデルの三枚の防壁、「政府による広報と資金援助」、「迅速かつ高感度な検査と追跡」、「外出制限と隔離」があったならば。

 

 私たちは災害の中にいて、政治の意思決定者によって「どうでもいい」と思われている。

 「どうでもよさ」によって、政府の対策は後手後手に回り、感染の流行は長引き、いたずらに拡大した。

 そのことを肯定しなければならない義理は一つもない。 

 この「どうでもよさ」に対して、私たちは抗わなければならないと思う。

 

#Tokyo2020 について・その2

 東京オリンピックの閉会式が今日行われ、8月24日からはパラリンピックが始まる。

 今日(8/8)までに、日本は金27個、銀14個、銅17個の計58個のメダルを獲得し、一方で東京都内の感染者数は、開会式当日の7月23日に1359人、7月27日に2800人を超えてからは、1日3000〜4000人の間で推移し、陽性率も7月23日には12.9%、以降徐々に増加し、八月に入ってからは20%前後と高い数値を示している(参考 https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp)。

 パンデミックは災害と言ってよい。その最中に、オリンピックという「ショー」が開催されている。

 

 もし、オリンピックが平和の祭典であり、オリンピック憲章(https://www.joc.or.jp/olympism/charter/pdf/olympiccharter2020.pdf)にあるような差別の撤廃、人間の尊厳の保持、倫理規範の尊重を基盤とする大会であるとしたら、東京オリンピックは失敗であると言えるだろう。

 開会式の演出メンバーからMIKIKO氏が排除され、佐々木宏氏が指揮をとった。佐々木氏の案には容姿を揶揄するようなものもあり、問題となった。組織委員会前会長である森喜朗氏は、「女性が入っている会議は時間がかかる(皆張り切って発言しようとするから)」と発言し、辞任となった。さらに、森氏は聖火リレーの最終ランナーに「『純粋な』日本人」なるものを望んでいたと報道された。

 ウガンダ代表のセチトレコ選手は、日本への亡命を希望していたが受け入れられず、一方でベラルーシ代表のチマノウスカヤ選手は隣国ポーランドへ亡命している。

 開会式で配布されるはずだった弁当は、10000食のうち4000食が廃棄される一方、ボランティアの男性が「廃棄するくらいなら自分たちに回して欲しい」と訴えようとするという出来事があった。

 

 

 しかしながら、もしオリンピックが、誰か特定の人を儲けさせるための商業主義的イベント、政治的失敗から目をそらすスポーツウォッシングであるならば、成功だと言えるだろう。

 日本のCOVID-19感染状況は深刻である。すでに述べたように、感染者数は東京だけで毎日数千人、陽性率が高いということは、それだけ市中感染も広がっているということだ。その中でも感染力の強いデルタ株が広まっている。

 医療が逼迫する中での対応を求められた田村厚労大臣は、「医療にたずさわる方には限界がある。無尽蔵でない」と述べた。その通りである。そして、病床を増やしても、医療従事者はすぐには増えない。それは、オリンピックの一年以上前からわかっていたことだ。

 医療のキャパシティに限界があるのであれば、その前段階で抑え込む、つまりは感染が広まらないように政府は尽力すべきだった。スイス・チーズモデル(https://www.nytimes.com/2020/12/05/health/coronavirus-swiss-cheese-infection-mackay.html 日本語訳 https://twitter.com/aicecreaming/status/1422075605172977666?s=20)にあるように、感染の抑止には、個人の努力とともに社会の責任も必要である。中でも、必要に応じた政策立案と予算の配分(モデル中、政府の広報と資金援助)は、政府にしかできない。

 だが、政府はこの一年間、アリバイ作り程度の弱い補償と道徳観念を盾に「自粛」を呼びかけるばかりで、必要な政策を立てて来なかった。

 陽性者の増加と医療の麻痺は、その結果だ。

 

 オリンピックはこの時期において、情報の発信元たるメディアをジャックすることで、危機感の共有を弱くし、また政策の失敗から目をそらさせることとなった。

 以下の記事によれば、「緊急事態宣言」とその中でのオリンピック開催は、矛盾したメッセージとなるため効果がうすいと言う。

 

原田教授によると、人は矛盾したメッセージを受け取ると「認知的不協和」と呼ばれる不安な状態に陥り、都合の良い情報だけを受け取るようになる。五輪のお祭りムードが続く中では、緊急事態宣言も人ごとのように感じるため、効果は薄れると指摘する。

www.jiji.com

 

 流行第五波の中でのオリンピックは、情報の発信元をジャックするだけでなく、それ自体が緊急事態宣言の効果を減少させる。上記スイス・チーズモデルでは、「政府の広報」も重要となるが、その方法も誤っていたと言える。

(なお、上に引用した記事で、原田教授は「高速道路や公共交通機関の値上げによる移動の抑制」を感染対策のインセンティブ(動機付け)に挙げているが、私は動機付けの例としてマイナスのものを挙げることについては疑問である。今まで、ろくな補償も社会保障もないまま、「感染するかもしれない」「感染させるかもしれない」というマイナスの動機付けで、私たちは動いてきた。それがいい加減疲弊しているのが正に今ではないか。)

 

 イベントの中止や商店の営業休止、美術館・図書館等の休館等、様々なものが抑圧され、感染が拡大する中で、なぜかオリンピックだけが健やかに、のびのびと開催されている、ように見える。

 しかし、ここにもまだ問題がある。日本の夏は暑い。三十年前ならまだしも、現在の都市部の暑さはほぼ亜熱帯と言っていいのではないだろうか。加えて多湿でとてもスポーツができるような状況ではない。事実、1964年の東京大会では、暑さを理由に10月に大会が行われている。

 この時期にオリンピックが行われるのは、アメリカでオリンピックの独占放映権を持つNBCに配慮した結果であると言う。他の時期では、別の大きな大会と被ってしまうのだ(参考 https://jp.reuters.com/article/summer-olympics-tokyo-idJPKBN1KK09D)。

 つまり、オリンピックという「ショー」で一番稼げるのがこの時期なのだ。

 開催中も選手から暑さに対する悲鳴が上がっていたが、これは早めに現地入りして暑さに慣れることができなかったせいでもあるだろう。早めに現地入りできなかったのは、日本国内の感染状況が落ち着かなかったからである。

 さらに言えば、COVID-19の世界的な流行も、一年では十分に対策できないことが予測されていた。そのため、IOCからは二年延期案や、パリ側から2024年の共同開催が提案されていたが、当時の首相だった安倍前首相が一年延期を希望し、今年の開催となった(https://www.jiji.com/jc/v4?id=20210608oly-enforce0001)。

 一年延期と決まったからには、それに向けてCOVID-19の流行の抑止に努めなければならなかった。しかし、それも怠った。これについては前回のブログに書いたので割愛する(https://masainos.hatenablog.com/entry/2021/07/23/195839)。

 つまり、最も「健やかに、のびのびと」尊重されているのは、オリンピックというイベントそのものではない。「この時期にオリンピックをやる」と決めた、スポンサーや首相等の政策決定者の意思である。

 それ以外の人々は、医療従事者であろうが、支持者であろうが、私のような不支持者であろうが、たぶんアスリートでさえ、割とどうでもいいと思われている。

 

 オリンピック東京大会は、新型の感染症の流行がまだ収まらず、それどころか拡大の兆しさえ見える中で開催された。

 感染者が増えれば医療のキャパシティを圧迫する。しかし医療者はすぐには増えない。それは一年前からわかっていたはずだ。ならば政府はそもそも「増えない」仕組みを作らなければならなかった。でもそれはなく、呼びかけに終始し、その一方でオリンピックが開催されている。異様な大会である。

 

 

 

 異様であるが、ある意味でこの異様さは、今まで見知ったものでもあった。

 例えば、佐々木氏の容姿を揶揄するような演出案や、森氏の差別的発言そのものも問題であるが、ここから見えてくるのは、オリンピックレベルの国家イベントについて何らか決定権を持つような、ようするに「えらいひと」というのは、性別・来歴・考え方等の面で、本当によく似通っており、そうした集団がものごとを動かしている、ということだろう。

 均質性が高い、言い換えれば多様性の低い集団で起こりやすい心理を「グループシンク」、「集団浅慮」「集団思考」と言う。

 

強い結束力を持ち▽外部からの影響を受けにくく▽支配的なリーダーがいて▽多様な選択肢を検討する手続きを持たない――などが特徴。

 

こういう集団は、自集団を万能と思い込み▽自分たちのモラル(倫理観)に信念を持ち▽外部の人々を見下し▽疑問や異議を持つことを自己規制し▽満場一致が何より大事と考え▽反対者には圧力をかけてしまいがち――だという。

mainichi.jp

 

 均一的で自信過剰な集団は、「個人で考えるよりよほど愚かで極端な結論に走ってしまいがち」だという。

 しかし、問題はそれだけではない。彼らの「個人で考えるよりよほど愚かで極端な結論」は、政治的・社会的立場が強いだけに、自分たちと性質の異なる個人の訴えを軽視し、抑圧し、押しつぶす。

 例えば、低容量ピルが「若い女性の知識のなさ」や「悪用のおそれ」によって、認可が遅れる、または条件付きで認可される。LGBTに対する差別撤廃の法案は、「理解促進」を名目にして骨抜きにされる。誘致当初掲げられていた「復興五輪」は、東日本大震災からの復興は、どうなったか?

 意思決定者の「こうあるべき」にそうことを、ひそやかな形で、あるいは苛烈な形で、私たちは日々要求されているのであり、「大きな問題がない」「波風が立たない」とは、誰かの悲鳴が押し殺されているという状況なのだ。

 

mainichi.jp

 

 東京オリンピックは異様な大会であった。

 パラリンピックはどうなるのだろうか、今はそれが心配だ。