ドストエフスキーのオタクあるいは戦後に生きる人間の見た『正三角関係』

 観劇後は面白かった! という気持ちで、原作の場面を数多く抜いて法廷劇として再構成しており、時代設定的に「花火」の夢が「爆弾」の悪夢に反転するという構造も、カーニバル的法廷劇との引き合いの緊張感があって良かった。が、よくよく思い返してみるとドストエフスキーの味は薄い。

 

 まずイワン・フョードロヴィチがめちゃくちゃにならない。裁判でめちゃくちゃになってしまうイワンは『カラマーゾフの兄弟』で非常に重要な場面である。めちゃくちゃになるからではない。二律背反に囚われて悪魔の幻影まで見たイワンが、自身のプライドを越えて真実=正義を掴もうとする場面だからだ。もちろん永山瑛太でイワンめちゃくちゃ劇場が見たかったという欲望は大いにある。あるに決まっている。
 ただ、イワンは単なる秀才ではなく、無神論者でもない。明晰な頭脳で「神がいるならば、なぜ神はこのような悲惨をお許しになるのか?」と天に向かって問うた背神論者である。
 そのようなイワンならば、兵器開発に携わるという状況は、二律背反の究極的状況のはずである。だが、正三角関係の威蕃(イワン)は兵器開発に対してあまりというかほとんど葛藤を抱えておらず、むしろ兵器の完成のために兄を無罪に持っていこうとする。その屈託のなさは何なんや。
 よって悪魔もいない。父親に対する殺意もないのでスメルジャコフとの対話もない。
 最初白衣の男が出た時は「これが実はイワンの幻影だったらどうしよう……」と思ったが現実の人だった。大量破壊を可能にする方法を思いついてしまい、あるいは研究をしていて、自身の中の罪と二律背反に耐えきれず「それを命じる誰か」の幻影を見るイワン・フョードロヴィチ、ああ、破綻がやってくるわ……!! と思ったが来なかった。自分の幻影の兵器が現実の最悪の夢としてやってくるイワン・フョードロヴィチ……もいなかった。
 在良(アリョーシャ)による「墨田麝香(スメルジャコフ)は兄さんを尊敬していますからね」の発言があり、威蕃も墨田と自身の父殺しに言及したがなんとなくフェードアウトしていった。ここはさすがにいや何もないんかい!! と思った。
 そういえば小動物殺しのモチーフが墨田から威蕃に移っていて、それもスメイワを感じたが特に何もなかった。
 正三角関係にとって『カラマーゾフの兄弟』はあくまでも原案であるし、翻案作品とはそういうもので、原案の表現と比べてあれこれ取り沙汰するのは鬱陶しい行いであろう。しかし翻案として戦時中の長崎に移し、その劇中の白衣の男は幻影ではなく、威蕃は彼らと共に「お国のため」に兵器開発をしているのだとしたら、ここで描かれる「上」が空虚であるのは不気味である。具体的に言うと、彼らの動機の中には天皇の存在感がびっくりするくらい薄い。これについては脚本がどうこうというよりは、この題材の扱い辛さを感じた。

 

 イワンから二律背反がなくなり信仰の問題が問われなくなると玉突き的にアリョーシャとの対話もなくなる。第五編「プロとコントラ」はその代表的なものだし、アリョーシャとイワン、信仰の人と背神論者のヒリヒリするような対話が見られる。このお互いの魂をぶつけ合うような対話劇はドストエフスキーの真骨頂だが、『正三角関係』では法廷弁論に集約した形だろうか。イワンに限らず、アリョーシャはセラピスト的というか、誰かとの対話の中で相手の本質を引き出すような役割をしている。その彼がグルーシェンカとの対話で彼女の中に「誠実な姉」を見出すところは好きな場面の一つだ。こうした対話がないと、アリョーシャの影はどんどん薄くなる。
 これについて、威蕃が数式を書く間在良が眠っているのは「信仰」が目を閉じているから数式を書けたということではないかという感想を見かけてなるほどな、と思った。

 そうだとすれば、その数式とそれがもたらすものは大きな罪であるということは劇中で指し示されている。しかしやはりそこに対話=他者の言葉はなく、その数式を生み出す威蕃が自身の内に二律背反を抱え込むこともない。アリョーシャは誠実な他者の言葉だ。イワンというキャラクターは他者に一線を引く割にあっさりその言葉を内側に引き入れてしまうところがある。イワンはその他にも沢山の言葉(悪魔、神=信仰、スメルジャコフ)を内側に抱え込み、その引き合いの中で生きる。二律背反がないからアリョーシャ(在良)との対話がないのではなく、アリョーシャとの対話がないから二律背反がない、ということなのかもしれない。
 またイワンの話をしてしまった。
 アリョーシャ、フョードルは『カラマーゾフの兄弟』メディアミックス二大鬼門であると思っている。アリョーシャは、第一部が完結した直後に作者が死去したため肝心の第二部が書かれないままになっており、今ある原作小説の中ではいまいち主人公と分かりにくい。アリョーシャの重要エピソードである子供たちの話は、第二部の伏線なのだろうが第一部では本筋にほぼ絡まないために、時間に制限のある媒体では省略されやすい。信仰の人という性格づけも、特に日本では扱いかねているような印象を受ける。
 フョードルは、金にがめつく尊ぶべきものを尊べず、パロディ・茶化し・道化によってあらゆるものに泥を塗る人品卑しき男であるが、「クソ親父」要素を取り分けていった最後に謎の愛嬌と一片の悲しみが残る人物で、このバランスの再現が難しい。息子に遺産を分けず独り占めし、彼と女を取り合うというと何か強権的な感じがするのだが、原作を読んだ印象ではフョードルはむしろ小物っぽいし、クソ野郎ではあるが人間味のあるいいキャラクターなのだ。ところがメディアミックス作品では単なるクソ親父かただ不愉快な人物になりがち。「この父なら殺意を抱いても仕方がありませんね」のメッセージのこもった、事件を起こすための下衆さをまとわされがち。日本ではやたら強権的な人物にされがち。「仕方がない」理由を探さずに自分から殺意を抱いてけ! それが近代の幻想であっても自由意志を手放すな! ミーチャを見ろ! と思う。
 今回の舞台も、この二人については役者の味は楽しんだが、ドストエフスキーの味は薄かった。それ自体は珍しくない。一点これは……と思ったのは、在良が兄富太郎に対するインセスト・タブーかつ「聖書で禁じられている」感情である同性愛を告白する場面。これはコメディ的に描かれ後半で出てくる「もう一つの問い」から気を逸らさせる装置みたいになっていて、それはないだろう、と思った。二つ目の問いは、アリョーシャ=在良の利己心に対する問いであり、それ自体は重要だが、一つ目の問いがそれより軽いとか重いとかはない。どちらも身のうちから湧き上がる彼自身の問いだ。
 おそらく原作のホフラコーワ夫人が元であろうウワサスキー夫人はよかった。面倒臭さと愛嬌のバランスという点では、ひょっとしたら一番フョードルっぽい人かもしれない。生方莉奈もチャーミングで結構好きだったが、年齢いじりみたいなのはやめてほしかった。
 グルーシェンカも尺の問題か薄味だった。舞台でグルーシェンカとアリョーシャの対話、見たかったが長澤まさみが分裂しなければならないので致し方ない。

 

 ミーチャ推しとしては最後の場面でグッときた部分はあり、また最後の場面の後に富太郎の背負うものの重さを考えると拍手を惜しまなかったが、それは原作でドミートリイが抱えたものとは、やはり違う。
 『正三角関係』はドミートリイ=富太郎が主役なので、原作のシーンはふんだんに描かれる。そんな場面までやってくださるんですか!? というところを抜いている。前半は特にミーチャっぽい。というか最後の結審の直前までかなりミーチャだと思う。パワーに溢れ、その瞬間瞬間を本気で生きている。しょうもない男なのに、見ている方はなぜか目が離せず応援してしまう。本気で生きているので本気で下衆なこともやるしカッとなったら父親を殺しに行くが、恋情や悔悟もまた心の底からの本気なのだ。だから父親を殺そうと思ったことも、それを踏みとどまったのも本気だ。心の底からそう思っている。
 だが、おそらくドミートリイならば、兵器開発に加担することを拒んで有罪になる方を選ぶ。というかそういう流れになると思っていた。前日にそれらしいやり取りもあった。が、箱の中身は鍵か権利書か、という二択の中で何かわちゃわちゃしたまま有罪になり、こっそり釈放され、逃がされる。
 ここの部分、いまいちうろ覚えで、威蕃は兵器開発のために逃したのか、それとも兵器開発そのものから逃したのかわからない。花火師が作るのは花火だ的なことを言っていたとは記憶しているのだが、威蕃の兵器開発に対する屈託のなさを考えると「平和をもたらす」と同じ方便であるような印象も拭いきれなかった。そうであれば、『正三角関係』での富太郎の逃亡は本来の意味での逃亡ではなく軍事的制度に組み込まれていくということだ。そうでなくても、結審シーンの有耶無耶感がここで響いて、富太郎は何か大きなものに流されて、原爆被害から自分一人が逃れた……という印象を受ける。
 やや話が変わるが、原作の「童の夢」が舞台ではグルーシェンカと分け合う夢になったのはいいなあと思ったのだが、「童の夢」で描かれるのは「全ての罪を覆い隠す雪」ではなく「雪の中でなぜ子供が凍えているのか」という問いであり、むしろここでは罪は覆い隠されているのではなく顕になっている。この世の悲しみに対する気づき、それまで自分がそれを看過していたという罪に対する気づき、それに対する動揺とがむしゃらな問い、それが「童の夢」である。『正三角関係』の雪の夢は最後でもう一度リフレインされるが、それが示すのは「童の夢」とは正反対のものではないか。
 全てを覆い隠す雪の中での二人の逃亡と、みぞれが降る中で真っ黒に焼け出された母親と赤子たち。同じ夢であるが、描くものは逆である。ドミートリイはこの夢の中で「今この瞬間からもはやだれの目にもまったく涙なぞ見られぬようにする」という途方もない願いを抱き、それをすぐさま一切の先延ばしもなく叶えようとする。ミーチャは常に本気の人である。この瞬間、ドミートリイは世界に身を投じ、その悲しみに心を全身全霊で傾けている。
 富太郎とドミートリイの違いは、この世界に対する全身全霊の投げ打ちではないか。コミットと言い換えてもいいだろう。ドミートリイは神のお作りになった世界の中にあって運命を諦めない。全身全霊で動き、自分の目の前のこの世へがむしゃらに関わろうとする。富太郎とドミートリイを比べると、ラスト近くの富太郎は、やはり何か流されている感が否めない。
 これは富太郎だけでなく威蕃にも言えるし、この演劇の後半、あるいは日本人と非常に大きな括りで言ってしまえるのかもしれないが、世界あるいはこの世に対するコミット感の薄さ、は何だろう。この世や世界というのは決して抽象的なものではない。私のすぐ目の前から広がっているのだから。
 特に後半部分、話がシビアになって行くにつれて、題材との乖離が気になった。日本側における兵器開発を描いておきながら、そこに対する関わりの薄さは何だろう? この関わりとは、単なる仕事や業務ではなく、心の関わりである。兵器を開発するということ、そしてその兵器が現実に何をもたらすかということへ、自らの心を投じているだろうか。何をもたらすか、というのはもちろん威蕃が自己正当化的に述べていた「平和」ではなく、無数の殺傷である。白衣の男がイワンの幻影でないのならば尚更、それを積極的にもたらそうとしていたということを注視しなければならない。
 好意的に見れば富太郎の最後のセリフはそういうものにも取れなくもないかもしれないが、やはり全体の流れを踏まえるとどうも噛み合わないものを感じる。
 「童の夢」から覚めたドミートリイは、他者の痛みに対する苦痛と罪を感じ、「みなさん、わたしたちはみんな薄情です、みんな冷血漢ばかりだ、ほかの人たちや母親や乳吞児を泣かしているんです。しかし、その中でも、中でも僕がいちばん卑劣な悪党なんだ」と言う(このセリフ、松潤ミーチャで見たかった。これも欲望です)。他者の痛みへと開かれたドミートリイは、次に「父親の血に関しては、僕は無実なんだ! それでも刑を受け入れるのは、僕が父を殺したからじゃなく、父を殺したいと思い、また、へたをすると本当に殺しかねなかったからなんです」と言う。この二つは決して無関係ではない。「僕がいちばん卑劣な悪党なんだ」という言葉は、単なる自己卑下ではないし、高潔な人から順に並べて自分が一番ビリ、みたいなことでもない。身のうちから湧き上がる動揺と看過の罪深さを、自分が「看過する」ということをしてきたことへの罪を、ドミートリイが彼自身として全身全霊で感じていることの現れである。それと同様に、父殺しは今でこそ「かもしれない」という永遠の可能性となったが、同時にそうでなければ自分はそれをもたらしたという、自身の能動性とその先にある責任への言及である。刑法上の「犯罪と刑罰」ではなく、殺意を抱いた自分の中から湧き上がる「罪」であり、その贖いへの意志だ。そんなことを言い出したらキリがないって? しかしキリのない問いに全身全霊で身を投じようとするのもまた「カラマーゾフ的力」であろうし、これは『正三角関係』における改変の意味をも指し示す。
 原爆投下は黙示録に書かれた災厄ではなく、名と生活と肉体を持つ無数の人のもたらしたものであり、劇中で日本における核兵器の開発が描かれたならば、最後の光と焼け野原は反転して自らがそれをもたらそうとしていたのだということを指し示す。今でこそ「そうではなくなった」が、それをもたらすために威蕃たちは動いていた、少なくとも劇中ではそう描かれていた。無論兵器の威力はあまりにも大きく、あまりにも一瞬に、残酷に全てが失われる。しかし、だからこそ、それが大きな災いとして描かれ、そこから一人逃れた富太郎の独白と悲しみに焦点があたると、作品全体における兵器開発ひいては戦争そのものに対する能動的な「コミット」=関わりの罪がやや削がれてしまったように思う。


 投下された原子爆弾はその土地の全てを無差別に殺傷した。核兵器の使用はそこ/ここに住む全てのものに対する罪であり、恒久の平和は普遍の価値だ。その被害を訴え核兵器の根絶を目指すのは、やはり日本という社会共同体の役割であろう。その意味で、『正三角関係』の舞台が戦時中の日本、というより長崎である「意味」はあるし、改変の重要性もわかる。
 しかし、現代で発信するにあたって、それだけでいいのだろうかというわずかばかりの疑念が残る。戦後八十年近くが経過し、被爆者の平均年齢は85.58歳、全国で10万6825人だという(2024年9月30日 この記事を参考に表現を変更しました)。上げられた言葉を受け取り、未来へ伝えることは必要だ。しかし、それは今の私たちが、今ここから、この場所に立って、自分たちの声と言葉で言わなければならないのではないか。でなければ、名と生活と肉体を持った人の発した(あるいは発することのできなかった)肉声が、単なるメッセージに薄められてしまうのではないか。その時原爆被害を描いた作品は、過去の作品で描かれたものを引用しただけの厚みのないものになってしまうのではないか。
 アジア太平洋戦争は終わったのかもしれないが、その影響は今も残る。そして、戦争はこの世からなくなっていない。前年(2023年)10月から始まったイスラエルによるガザ地区への侵攻は、子供を含めた無数の個人に対する大量虐殺であり民族浄化であることが明らかだ。そしてイスラエルの建国自体、世界大戦前のヨーロッパ・アメリカにおけるユダヤ人排斥が背景にある。それを眺めることのできる技術とメディア網があって、それは看過され続けてきた。これは関係のないどこかの話ではない。日本は先日の国連総会で採択された、イスラエルに対しパレスチナへの占領状態を終わらせることなどを求める決議に賛成している。

www3.nhk.or.jp

その一方、攻撃型ドローンの購入予算を計上し、その選択肢にイスラエル製の武器を上げている。

www.jcp.or.jp

私たちは集まって社会を作り、(どれほど形骸化されていようと、という留保をつけたくなるが)民主主義制度の元で国家共同体を作っている。国家は雲や風みたいな自然現象ではなく人が作ったものであり、意思決定はそこにいる人が行う。国際社会をどんどん細かくしていけば、行きつくのは個々の人間だ。だから私たちは、生きていてすでに、この世界に関わっている。そして私は、キリのない問いに身を投じきる勇気がなく、一種の薄情さを持って日々の生活を過ごしている。
 日本もまた戦時の暴力や虐殺行為、植民地支配と搾取を行った。近年、そうした暴力の歴史を隠し、なかったことにしようとする動きがあり、私は怖い。このような動きが出てきたのは、それだけ時間が経ったということを、歴史を適切に扱う蓄積を社会全体で十分になさないまま私たちが漫然と時を過ごしたということを示しているのだろう。翻って原爆については、あまりにむごたらしく全てを破壊したあれは、災厄ではなく人の営みによってなされたものだということを見つめ得るほどの隔たりが、1945年と2024年の間にはあるはずだ。もう二世代か三世代遡らなければアジア太平洋戦争の直接体験者がいない、そういう場所から言うことのできる、言うべき言葉があるはずだ。
 いや、おそらくこれははっきりと言わねばならない。戦争は災厄ではなく災害でもない。それは人がもたらした。日本にアイデンティティを持つ「私」は戦争に関与したし、関与している。そういう今に立って戦争に反対する。国の武器購入もどこかでそれが作られるのもごめんだし、使われる(使われた・かもしれない)ことに対して強い憤りを感じる。嫌だ。やめろ。今すぐに!
 私はヒステリックだろうか。それとも的外れか?
 今に作られる作品ならば、今ここからの、未来への祈りを込めて見て、何の悪いことがあるだろうか。

 

記事中の『カラマーゾフの兄弟』引用は全て新潮文庫原卓也訳です。

上 https://www.shinchosha.co.jp/book/201010/

中 https://www.shinchosha.co.jp/book/201011/

下 https://www.shinchosha.co.jp/book/201012/

 

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