1日目の日記は下記リンク
ぶかまを見る日である。え? 本当に……? という感じで朝起きた。
朝食を買いに出ると雨が降っていた。滞在前から天気予報をチェックしていたのだが、雨は降るなあ……降らんかもしれへん……やっぱ降るわ! みたいな推移だった。知ってはいたがちょっと悲しい。私は雨が嫌いである。
朝食を食べたら地下鉄で再びイチョンへ。
ところで、韓国の地下鉄は運賃が安い。初乗り運賃も安いし、ある程度の距離を行かないと運賃が加算されないようだ。ホテルの最寄り駅からイチョンへは八駅くらいなのだが、その間ずっと初乗り運賃だ。大阪市営地下鉄なら二段階くらい運賃が上がっている。1日目は現金を持っていなかったのだが、wowpassにチャージされている10000ウォンで足りるのか、大阪市営地下鉄のノリで乗っていたのでいらぬハラハラを感じていた。
イチョンに到着したらまず国立ハングル博物館(公式ホームページ)へ。ずっと行きたかったところなのだ。平日だからかそれほど混み合っておらず、ゆっくり見ることができた。メモもたくさん取れて楽しかった。最初の映像展示だけは酔ってしまって見られなかったのが残念だ。
国立ハングル博物館には日本による植民地支配時代の展示もある。この中に、二冊の小学校用の教科書、『国語』と『朝鮮語』がある。つまりこの時代には、日本によって母語が「外国語」と位置付けられていた、ということだ。恥ずかしいことに、『朝鮮語』の教科書を見た時にどういうことかピンと来ていなくて、キャプションを読んでようやく分かった。『国語』教科書についてはある意味歴史の知識の範疇にあり、これがそうか……と見ていたのだが、『国語』と『朝鮮語』の二冊が並んでいるのを見た時、その暴力性と自分の呑気さに頬をはたかれた。
国立ハングル博物館、という名前なのだが、それ以前の漢文やハングル・漢文混用の時代の資料も展示されている。言葉は人が使う。言葉が書かれ、作られ、使われたことを示す資料は、それと共に生きた人々の歴史である。印刷された本だけでなく、手紙や手書きのレシピ集、占いの本(?)なんかもあり、美的な「書」として書かれたものから日常の手控えのようなものまで、どういうふうに書かれたんだろうとか、どういう経緯で作ったんだろうとか想像しながら見るのはとても楽しかった。だから『国語』と『朝鮮語』の二冊の教科書を見た時のことは忘れたくないと思う。
ミュージアムショップでお土産を買って外に出るとめちゃくちゃ雨が降っていた。どしゃ降りに近い降り方である。とりあえず国立中央博物館(公式ホームページ)の方へ行く。ここはかなり広くて人も多く、雨なのもあって一気に疲れてしまい、見たいもの優先で金属活字と青磁・白磁の展示だけ見てホテルに帰ることにした。
ホテルで足湯&休憩をしていよいよぶかまを見に行く(なおぶかまについてはこの日までに予習をして、ある程度流れは追えるようにして来た)。え? 本当に……? と直前まで思っていたのだが無事にチケット引き換えができて中に入れて席についてしまった。
私が観覧した回では、フョードル役キム・ジュホさんとイワン役キム・ジェボムさんが前回から引き続いてキャスティングされている。キム・ジュホさんはいわゆる「イケオジ」で、フョードル攻を一気に増やしたというめちゃくちゃかっこよセクシーなおじさまである。なんか普通にグルーシェニカがこっちを選んでしまうのでは? という危うさがある。
イワン役キム・ジェボムさん……今回の渡韓の最大の目的はこの方のイワンを見ることだった。アン・ジェヨンさんが「わたし(たち)の心をめちゃくちゃにしたハチャメチャ歌うまお兄さん」なら、キム・ジェボムさんは「私たちの心を粉々にしたガラスのイワン・カラマーゾフ」である。ジェボムさんイワン回の配信をTLのフォロワーさんたちと共に見た後の私の第一声(ツイート)は「ご無事ですか」であった。
それが見られるらしい。やばい。
当時のことを思い出しながら書いているのだが、緊張が蘇って空行を入れてしまった。見た後は記憶が消えないうちに、病的な興奮と共にスマホのメモ帳に感想というか思い出したことをぺちぽち打ち込んでいたら電車を乗り過ごしたので明洞で降りて明洞餃子というお店でカルグクスを食べた(その時に書いたメモ。3000字くらいある。リンク失敗してたので貼り直しました)。付け合わせのキムチがかなり辛かったのだが、前の席に座っているお兄さんはサラダか何かみたいにぱくぱく食べていた。私は辛いものは好きなのだが、胃腸がなかなか許してくれないのでうらやましい。
さて、ぶかまであるが、思いがけず「アリョスメだったな……」という感想になった。
アリョーシャとスメルジャコフのやりとりがガチの喧嘩でめちゃくちゃ良かった。手は出ていないが拳の応酬の見えるようなバチバチのやり合いであった。二人とも思い切りがいいのである。
スメルジャコフ役イ・ジュヌさんは、前韓国代表のフィギュアスケーターで、その点でも見たかったキャストさんであった。ジュヌさんのスメルジャコフは初っ端からグイグイ行くアッパーな感じでありつつ、何となく原作のスメルジャコフに近い雰囲気を感じた。あの書き置きを残しそう。ボムワン兄さん(ジェボムさん演じるイワンの通称)との温度差のせいか最初からすれ違い感があったのだが、イワンから拒否された後は、呆然とするというよりは一転「やはりこの世は絶望だった!」という強い確信を得たように思う。このスメルジャコフは迷わない。
パク・サンヒョクさんのアリョーシャは、声が甘やかでマンネっぽい、と思っていたら、キレると歌声が鋭くなり、何それめっちゃええやん……と思った。末っ子らしい怯えや甘えをまとっていた前半からの헛소리で、それらをかなぐり捨ててまっすぐ父を見据えるのがかなり良かった。怒るアリョーシャ、めちゃくちゃいいな……。誰かのためではなく、自分のためのエゴイスティックな怒りであるところがまたいい。
父といえばキム・ジュホさん、今回の公演ではイケオジを抑え気味にしていたので油断していたら、途中で顎クイのシーンが入って「あかんてそれは!!!」と思った。헛소리では皆千々に乱れながら縦横に舞台をふらつき走り回る中、フョードルだけは普通にウロウロしていて、幽霊っぽくて良かった。
話をアリョスメに戻すと、スメルジャコフはイワンを、アリョーシャはスメルジャコフを通して「世界」と突然向き合わされ、絶望なのか無神論なのか、あるいは神への新たな回帰へとつながる何かなのかはわからないが、何がしかの確信を掴んでいる。その点にアリョスメを感じた、と思ったのだが、こうして整理して書き出してみるとイワ←スメ←アリョってこと……? 更に言えば神←イワだから神←イワ←スメ←アリョか。ハチクロ?
確信と言えば、チェ・ホスンさんのドミトリーは歌声の使い分けがすごかった。本当にミュージカル俳優を捕まえて言うことではないのだがホスンさんがまた「ええ声」で、一曲目の(ほぼ)ソロ曲나는 그런 남자야ではかなり強めの発声に寄せていた。ちょっとToxic masculinity(「有害な男らしさ」という訳語が定着しているが、正確には本人をも蝕む「有毒な男らしさ」と言った方が良いと聞く)を感じるような種類の強さである。一方で발 없는 새は優しくも澄んだ歌声でとても良かった。前者が軍隊的な男社会の中での強さであるとすれば、後者はそこから抜け出して、自分自身の道を得たということになろうか。ちょっと若ゾシマっぽさも感じた。
それぞれがめいめいに確信を掴んでいる中、イワンだけはどこまで続くともしれない薄暗がりにいるような心もとなさを感じた。ジェボムさんのイワンは、神はいないと言いながらも神を求めて二階席を見る。神がいないということすら確信がない、というふうに見えた。最後にアリョーシャに尋ねたかったのは、「神はいるのか?」だったのかもしれない。……というような部分も、おそらく他の組み合わせで見ると印象が変わるのではないかと思う。その辺も面白いところである。
などと中心を迂回するように感想を書き連ねてみたが、いやあ……ジェボムさんのイワン……。生きてるといいことがある……。先に「ガラスのイワン・カラマーゾフ」と書いたが、この方のイワンはそこはかとなく原作っぽいのである。というか何かもうドストエフスキーの文体なのだ。舞台の上の役者さんが「文体」とはこれいかにと私も思うが、そう感じてしまったのだから致し方ない。立ち居振る舞いなのか、神経質な雰囲気なのか、異様な微笑みがうますぎるところなのか、それら全部あるいはそれら以外のところに何かあるのか、とにかくめちゃくちゃ原作の文体を感じる。小説では(おそらく意図的に)イワンの外見描写がほとんどないのだが、ジェボムさんのイワンを見た後は「イワンにもえくぼがあるかもしれんな……」と思った。
なお「文体」ぽいというのは決して文章ぽいとか観念的とかではなく、むしろちょっと生々しいくらいだった。外見描写がなく、自分の思想に生きる人間でありながら、イワンという人間は非常に生々しい。その生々しさの要因の一つは、思想に「生き損ねた」からではないか、と思う……という話をしようと思ったのだがぶかまからだんだん外れていく上にちょっとしたレポートみたいな分量になりそうだったので一旦措く。
【追記 5/21】私が見た回のキャストだと、割と全員の思い切りが良く、ボムワン兄さんもようやく感情を解放した、怒りを露わにしたという感じがしたのだが、一方でたいへん痛ましいのはなぜだろう……とおよそ一月半の間しがみ続けていたのだが、昨日フォロワーさんと話していて、一方でその自身の怒りに傷ついているという印象もあったせいではないか、と思い至った。というのも、自身の神への信仰、というよりは神を信じたいという自身の隠れた気持ちを自覚した上で、もう一度神の沈黙に出逢い直すことになるからだ。대심문관 Iは、スメルジャコフの발작のメロディラインをなぞりつつ、「歓喜」の感情を乗せられていることが作曲家さんから明らかにされている。ジェボムさんの대심문관 Iは、激しい怒りを露わにしつつ、ある瞬間にスッと「歓喜」に乗る。この時イワンは、感情の解放への喜び、神への訣別や「ついに言ってやった!」というような怒りに裏打ちされた喜びを全身に感じている一方で、それに対する神の返答はやはり、ないのだ。ボムワン兄さんは神の話をする時に2階席を見る。しかしそこには観客の我々しかいない……そこに神はいない。怒りも歓喜も、それを受け止めるものが不在の、返答のない、一方的な、虚しい「対話」なのである。
更に言うと、ボムワン兄さんはわりと最初っからフラフラしていて線の細い印象で、もう自分の怒りや歓喜そのもの、およびその二つの感情の引き裂かれに体が引き摺られてしまって保たない、という感じもした(実際、대심문관 Iの最後では地団駄しながら滑って転んでしまう)。ありがとうぶかま、こんなイワンを見せてくれて……。無事粉々になりました。【追記終わり】
140年以上第一部完のまま第二部の出ていない小説のミュージカルを見に行ったら、イワン・カラマーゾフがいたんですよ。ちょっとねえ……もう何がなんだか分からない。正直なところ、舞台もものすごく集中していたという感触はあるのだが、色々と衝撃的でほっそり以降の記憶が所々あやふやである。ただ「見た」という強固な手応えがあって「あれは夢?」などと思う余地は一切ない。夢といえば帰国してから「舞台を見ている」夢を見ていて、何かしら記憶には焼き付いているようだ。
そういえばみんなが行ってるオリーブヤングなる店に私も行ってみたかったのだが、今回の旅行では近くになかった……と思っていたが、あとで地図を見るとこの日に横を通りすぎていたことがわかった。