私とBLと俳句と短歌 ―あるいは、 #BL短歌 #BL俳句 における欲望について―

2022/10/22 この原稿は、2017年11月発行の『庫内灯』第三号に掲載していただいたものです。

外山一機氏により「BL俳句という可能性」『俳句 2021年12月号』(特集 必読の俳論1970-2020)で取り上げていただきました。

https://www.kadokawa.co.jp/product/322011000108/

また、以下の記事では触れていませんが、タグの参加者や『庫内灯』『共有結晶』参加者は、オンライン・対面を問わず大小様々なハラスメント(「説明」を求めるものから単純な恫喝まで)に遭遇しており、この記事はそうしたものに抵抗するものとして書いた側面があります。

ハラスメントについては、現在高松霞氏がプロジェクト「短歌・俳句・連句の会でセクハラをしないために」を立ち上げ、各団体へアンケート調査をされております(回答は締切)。こちらのプロジェクトの成功をお祈りしております。

 2022/11/06追加 上記プロジェクトの各結社回答が掲載されました。

 短歌 https://note.com/kasumitkmt/n/n462a33ed91d7

 俳句 https://note.com/kasumitkmt/n/na16b9f7e9db2

 連句 https://note.com/kasumitkmt/n/n3881034e1210

正井はトランス差別に反対します

 

 

 

※ 本稿は二〇一七年三月十四日に発表したnote「私とBLと俳句と短歌」[i]を加筆・訂正したものです。

 

 なぜBLなの、と尋ねられます。あるいは、なぜ彼女らはBLを好むのか、と言った分析はしばしばツイッター上ですら流れてきます。

 しかしながら、ある物語に何を求めているのか、明確な答えを持つ人の方が少ないのではないでしょうか。それは現実逃避だったり共感だったりするでしょうし、言葉で明確に指し示せるような、たった一色の、不変のものであることはほとんどないでしょう。「なぜその物語が好きなのか」という問に答えるのは非常に困難です。

 ひとまず本稿では、なぜそれが好きなのか、を問うのをやめたいと思います。物語は欲望と結びつきます。BLというジャンルが成立しているのは、それを欲する人々がいるからです。

 一方で、欲望とは個人的なものですから、共通の答えを探すのは難しい。ある物語が好きな理由について、全員に共通する答えはないし、一人の中でも一つに限定されるものではなく、様々な思いが濃淡をもって混じり合っているものなのです。

 さて、BLが個人の欲望に根ざすものならば、BL短歌、BL俳句における欲望のあり方とは、どのようなものだったのでしょうか。この問について、以下ではBLに関する先行研究を確認した上で、『庫内灯』、および『共有結晶』の執筆者による発言を中心に整理していきたいと思います。

 

先行研究の概観

 なぜBLが存在するのかを問う先行研究について、本章では、金田(二〇〇七)の分類に従い、①心理学的やおい[ii]論②ジェンダー論的やおい論の二つに大別して、その概要を述べたいと思います。ここで言う「やおい」とは、BLの別称です。

 ①心理学的やおい論とは、なぜ女性達は「やおい」が好きなのか、という問に対するものです。中島梓(一九九一)『コミュニケーション不全症候群』等、女性性にまとわりつくマイナスイメージから距離をとり、なおかつ性的な物語を自分とは切り離し安全に享受するための装置としてやおいを見るものです。金田(二〇〇七)で指摘されているように、これらの多くはやおい愛好を解決すべき問題として取り扱う点に問題がありました。

 これに対し、②ジェンダー論的やおい論とは、社会の成員である女性にとってやおいとは何かを問うものです。これは、社会のジェンダー秩序に注目し、「やおい異性愛秩序を再生産するものなのか、それとも異性愛秩序への抵抗や撹乱なのか」[iii]を主題とします。溝口(二〇一五)で指摘された「定型BL」が異性愛秩序を再生産するもの、「進化系BL」が抵抗や撹乱をするものに当たります。しかしながら、金田氏も指摘するように、同一の表現を性別規範の再生産と見るか抵抗と見るかは、論者によって意見が分かれています。

 以上、非常に駆け足かつ表層的にですが、BLに関する先行研究を確認しました。いずれも「なぜ」に対する完璧な答えを用意するには至っていません。しかしながら一つ言えるのは、小谷(二〇〇七)の指摘するように、BLとは「とにかく女性の欲望にのみ忠実」[iv]だということです。

 欲望は個人によって異なります。永久保陽子(二〇〇五)『やおい小説論』は、複数のBL小説について、登場人物の容姿を分析し、それが〈受〉=ジェンダー的女性性、〈攻〉=ジェンダー的男性性というような単純な役割分担ではなく、両方の性差的要素が各登場人物や各作品の中でブレンドされつつ配置されているということを明らかにしました。藤本(二〇〇七)では、こうした様々なジェンダー的要素を組み合わせ、自分の好みのカップリングを選べることこそがBLの重要な点ではないかと指摘しています。藤本氏は、よしながふみ氏の「女の人の抑圧ポイントは一人一人違う」という言葉を引用し、BLとはジェンダー的拘束による凝りをほぐす「オーダーメイドのツボ押し器のようなもの」[v]だと論じています。

 無論、BLは抑圧の解放装置というだけのものではありません。そういう側面がありつつ、楽しむ理由は、他のジャンルと同様に読む人の数だけあります。本稿では、BLが、その発生当初から女性の様々な欲望をすくい上げ続けてきたということを再度強調しておきたいと思います。

 以下では、BL短歌やBL俳句における欲望のあり方について、『共有結晶』と『庫内灯』周辺における発言を確認した上で、BL短詩における一人称のあり方、BL短詩の読み方について考察し、これらBL短詩の外側である言語芸術の側の発言を検討し、論じていきます。

 

「自分以外の何かになる」

 二〇一二年、 ツイッターで#BL短歌というタグが生まれました。同年、タグを作成した佐木綺加氏を編集長とし、BL短歌合同誌『共有結晶』が創刊されました[vi]。これは途中で編集長を平田有氏に交代しつつ、vol.1〜3および別冊を含めた計四冊が頒布されました。

 さらに、『共有結晶』寄稿者の石原ユキオ氏によって#BL俳句タグが広められ、二〇一四年にBL句会が催されました。二〇一五年には『共有結晶』寄稿者の佐々木紺氏を編集長として、BL俳句誌『庫内灯』が創刊されました。

 これら二つのBL短詩同人誌においては、キーワード的に繰り返されてきた言葉があります。以下では、そのうちの一つ、「自分以外の何者かになる」ということに注目していきます。

 「自分以外の何者かになる」ということについて、『共有結晶』vol.1・2の編集長佐木綺加氏は、vol.2の対談で以下のように発言しています。

 

BLのキャラクターって二次創作でもなんでも、「少し自分」じゃないかと思うんです。(中略)少年、青年、おじさん、虫とか無機物まで、どこかに共感するところを見いだせるから、BL短歌を詠めば「何にでもなれる」んだ、というふうにいいました。[vii]

 

 ここでは、キャラクターに対する共感が、男性だけでなく「虫とか無機物」に拡張されていることが注目されます。「自分以外の他者」としての男性を軸に、「他者」の領域にヒト以外の生き物までも含めているのです。

 また、『庫内灯』一号編集長の佐々木紺氏は、編集後記で以下のように述べています。

 

BL俳句で指したい「BL」にはリアル〜美少年愛、場合によっては男女や女女、性別不詳同士の関係も含まれると思っています。(中略)私個人としてはヘテロではない関係性のことをBLと呼びたいです。[viii]

 

 ここでは、BLという言葉の指す関係性が、男性同士以外の領域にまで拡張されています。こうした発言に対する「それは(ジャンルとしての)BLなのか」という批判はもっともでしょう。しかし、ここでのBLは、おそらく書店の棚に象徴されるような、ジャンルを指しての言葉ではありません。ジャンルとしてのBLから反転して、BLを読んだ時と同種の感情(または「恋愛物」として提示されるヘテロ恋愛の物語を読んだ時とは別の感情)が向かうものを指した言葉です。『庫内灯』二号でかかり真魚氏が論じた「男女BL」は、そうした気持ちの向かう先にいるのが男女だった時に使われた言葉ではないかと思います[ix]

 BL短歌・BL俳句は、ジャンルとしてのBL=男性同士の恋愛フィクションを足場にしつつ、それらの物語を享受する時の欲望のうち「他の何者かになる」という部分を積極的に言語化しながら、男性以外のキャラクターや男性同士以外の関係性をも取り込んできました。

 

BL短歌・BL俳句における「私」

 BL短歌・BL俳句においては、「自分以外の何者かになる」という部分に注目し、男性同士以外の関係性をも詠みこみ、読み取っていきました。以下では、BL短歌・BL俳句の作品内部における「私」のあり方について考えていきます。

 短歌や俳句は基本的に一人称の文芸です。「私」の内実については、様々議論がなされています。ただ、短歌や俳句の作中主体は特別に言及されない限り、作者、あるいは作者’ である、という考え方は、なんとなく共有されているのではないか、と思います[x]

 これに対し、BL短歌・BL俳句では、作る場合も読解する場合も、作中の「私」は作者本人とは別人だということが前提になっています。そこにいるのはフィクションの「私」です。ただしこれは全くの別人ではなく、佐木氏が指摘しているように「少し自分」が含まれることがあります。

 この「少し自分」には、大きく分けて二種類あります。一つ目は、「ありえたかもしれない自分」や「切り捨てざるを得なかった自分」が含まれる場合。もう一つは、自分の中に住み着いた他者、つまり「萌え」の対象である場合です。

 一つ目、「切り捨てざるを得なかった自分」について、佐々木紺氏は、BL俳句への批判に対し、自身のnoteで以下のように述べています。

 

戸籍上女性であり男性と結婚している私は世間からみるとシスヘテロ女性で、生活の大部分でそう扱われている。しかし性自認は未だに不安定で波があるし、好きになる人は女性であることの方が多い。当然のようにシスヘテロ女性として扱われるとき、痛む瞬間がある。そこにBL俳句や短歌という形は合っていて、表現するとき自分の傷に直接は触れず、それでいて現実と戦うとき確かな支柱のようになるときがある。[xi]

 

 ここで語られているのは、「切り捨てざるを得なかった自分」に対する痛みと、それに寄り添うものとしてのBL俳句・短歌です。人は社会の中で生活する生き物です。そこでの「私」の輪郭は時に他者によって決められます。私の一部でありながらも、他者から志向される「私」に入れられなかった、いわば小数点以下として切り捨てざるを得なかった自分を、一種の他者として言葉の中に蘇らせること、それがここで言われるBL短歌やBL俳句というものではないでしょうか。

 いやBLってもっと楽しい読み物だよ、という人もいるでしょう。私自身、「もっと楽しい読み物」としてBLを読むこともあります(後述)。しかし、前述したように、BLは個人の欲望と結びつくものであり、欲望とは、個人の中でもグラデーションや濃淡を持って抱えられています。佐々木紺氏のこの発言は、欲望のグラデーションのうち「自分以外の何者かになる」という部分に焦点をあて、社会に規定されざるを得ない自分からの飛躍を試みたものではないかと思います。

 「もっと楽しい読み物」としてのBL短歌・俳句における「私」とは、二つ目の「少し自分」、「萌え」の対象でしょう。萌え、という感情は説明が難しいです。これも個人の欲望に深く関わり、人によって定義が変化するのではないでしょうか。萌えの対象は私ではない他者であるにもかかわらず、私の頭の中に居座り、いつの間にかそのキャラクターのことを考えていたりします。

 二次創作の営みの中には、漫画や小説といった作品の形にならない段階として、「考察」というものがあります。例えば、キャラクターの発言や行動からその心理を分析するようなものから、ご飯を食べる順番は、というような日常的なものまで、様々な形の考察が日々出力されています。

 こうした考察は、一種の妄想とも言えますが、いたって真面目になされています。むしろ、真面目に考えざるをえない――対象について、真剣に考えるのをやめることができない。この時点ですでに、私の中には、他者としてのキャラクターが住み着き、その輪郭が出来上がっています。同様のことは、二次創作だけでなく、創作のキャラクターにおいても言えます。同様の考察は、例えば本編には描かれない裏設定として作者から明らかにされることもあります。BL俳句やBL短歌、あるいは二次創作俳句や短歌における「私」とは、こうした見つめざるをえない他者としてのキャラクターではないかと思います。

 私の中の他者、つまり切り捨てた私や萌えの対象は、私とは全くの別物として存在するのではありません。切り離さざるを得なかった私、あるいは何かの物語を享受したときに深く感銘を受けて私の中に胚胎したキャラクターを、作者としての私の対岸に置いて見つめたもの、これがBL俳句や短歌における「私」ではないかと思うのです。

 

#BL短歌 #BL俳句

 以上、BL俳句やBL俳句における「私」のあり方について述べてきました。本章では、その受け取り方に注目して論じていきます。

 BL短歌やBL俳句においては、時に読者の存在が強調されました。それは、享受者がいて初めて成り立つ、というだけではなく、受け手が積極的に自分の「萌え」にひきつけて解釈し、それを表明することを推奨するものでした。

 『庫内灯』一号の巻頭言で、石原ユキオ氏はBL俳句の読み方について次のように述べています。

 

例えば「砂浜」が登場したら、幼い頃毎年海水浴に行った砂浜、縞の水着を着た少年が物憂げに佇むベニスの砂浜、繊細な点描で表現された漫画の中の砂浜など、二次元から三次元までいろいろな砂浜を思い浮かべながら、いちばんぐっとくる砂浜はどれか考えてみてください。

 そうやって何らかの情景が思い描けたら、次にその情景の前後のストーリーを妄想してみましょう。好きCPをあてはめるのもいいと思います。[xii]

 

 これは、書かれてあるものを、自分の読みたい方向に解釈することを推奨するものです。裏を返せば、どういった景を描くのか、作者側が責任を持たない、という風にも読みうるでしょう。

 こうしたあり方について、それは作者の怠慢ではないか、との批判がありました。タグがなくても男同士だとわかるようにすべきだという意見や、タグづけによって読みがせばまるのではないかという意見もありました。一面から見れば、その可能性もあるでしょう。

 これらの批判は、俳句や短歌を作ることで何を描きたいのか、についての意見の相違に起因しています。BLと言うからには男同士の何かを描くのが主眼ではないかと思われがちなのですが、少なくとも『共有結晶』や『庫内灯』においては、それは最優先の、ジャンルを決定づける要素ではありません。俳句や短歌が一人称を基本とするのであれば、#BL短歌や#BL俳句という場所で優先されているのは、男同士を描くことよりも、「私の中の他者」の感情を描くことであると言えます。そして、読む側にとっては、「私の中の他者」の感情を言葉によって共鳴させ、揺らがせることだと考えられます。

 ここで重要なのは、BL愛好者の間では「私の中の他者」がどのようなものなのかは、人によって違う、あるいは、違うということが、一応は前提として共有されているということです。これは「自分の萌えは他人の萎え[xiii]」という言い回しに端的に表れています。萌えツボは人によって違うのだから、例えば二次創作作品のような、他人の解釈の結果について、正誤や優劣の判断を下すことは、大いに忌まれる行為なのです。

 BL短歌・BL俳句が発生したフィールドがウェブ、特にタグを使って他者の言葉を自分のものと等質に一覧することのできるツイッターであるという点は見逃せません。詠む・読むだけではなく、タグ・お気に入り・RT・リプライという動作が、すでに#BL短歌、#BL俳句という形式の中には含まれています。お気に入りやRTをした時点で、それは投稿者自身ではなく、他の人にとっての「萌え」、つまり、その人にとっての「私の中の他者」にひきつけられて理解されています。その理解のあり方について、正誤や優劣を問うことは、野暮な、時に暴力的な行為なのです。

 BL短詩がタグをつけて出力される際、詩歌の「私」を一旦自分ではない他者として設定するだけでなく、石原ユキオ氏の巻頭言の「好きCPをあてはめるのもいいと思います」という記述に見られるように、それが読者にとっての「私の中の他者」に引きつけて理解されることまでも半ば想定されています。作中の「私」が作者とは別物であるという前提だからこそ、読者が「私の中の他者」に引きつけて読むことができるのです。

 ただし、このことは、作者の放任を意味しません。石原氏の巻頭言でもあるように、「砂浜」と書かれていたら読者は砂浜を思い描きます。テキストに書かれていることを無視することはできません。巻頭言や『共有結晶』『庫内灯』で行われていたのは、一般に蓋然性の高いとされる読みよりも、読者独自の、つまり「私の中の他者」のための肉付けを前面に出すこと、およびそうしていいと繰り返し告げること、ではないかと思います。

 BL俳句やBL短歌では、一人称が作者個人とは切り離されています。さらに、作品を、他の人にとっての「私の中の他者」に引きつけて読むことが推奨されています。ただし、これは読解の放任に直結するものではなく、読者独自の肉付けを勧めるものでした。

 

「公共性」?

 こうしたあり方に対し、BL俳句を何らかの形で俳句の中に位置付けようとする動きが見られました。しかしながら、これらの位置付けには問題があるように見受けられます。なぜなら、BL俳句やBL短歌は言語芸術としての俳句の内部から発生したものではないからです。

 まずは言語芸術において、どのようにBL俳句が位置付けられたかを見ていきます。BL俳句について、福田若之[xiv]氏は、「公共性」という言葉を用いて説明しました。福田氏は、「BL俳句が客観的な必然性を持たずに書かれているということは、(中略)それに理由もなく惹かれてしまう個人のかけがえのなさによるものであることを示している。」[xv]とした上で、「BL俳句に欠けているものがあるとすれば、それは「現実」ではなく、むしろ、「公共性」ではなかろうか。」[xvi]と論じています。「公共性」のある俳句とは、福田氏の定義によれば、「「みんな」(仲間の「みんな」ではなく、誰でも「みんな」)というものの実在を信じて、その「みんな」に等しく共有されることに価値を置く類の俳句」[xvii]となります。

 この「公共性」という言葉を用いることによって、BL俳句の特徴が明らかになりました。ただし、「公共性」について、確たる定義がなされていないことは問題でしょう。さらに問題なのは、この論は「公共性のある/ない」という対立軸にBL俳句を位置付けることになるという点です。このことは、「公共性」という言葉を肯定的に見るにしろ否定的に見るにしろ、言語芸術としての俳句におけるヒエラルキーにBL俳句を巻き込んでしまう結果となりました。

 例えば、久留島元[xviii]氏は、「私」の対比としての「公共」の欠落がBL俳句の特徴だとした上で、福田氏の問題提起を以下のように解釈しています。

 

特殊な「個」へ(しか)届かない、届けようとしない表現行為があるとすれば、それは通常の、広く読者を求め、多様な読みを歓迎する作品の在り方とは異質の行為であるし、そうした小さな「私」(個)を超えた表現行為への希求こそ、これまで俳句の重視してきた、たとえば「写生」などの姿勢ではなかったか。[xix]

 

 久留島氏はここで、一方の極に「公共」、もう一方の極に「私」(個)を置き、その対立軸においてBL俳句の特徴を論じています。こうした論じ方には、「私」(個)の超越を目指す言語芸術としての俳句の中にBL俳句を位置付けようとする姿勢がより顕著に現れています。しかし、BL俳句の作者・読者を言語芸術の内部に位置付け、評価することは妥当なのでしょうか。というのも、BL俳句とは、例えば前衛俳句のように、言語芸術としての俳句の内部から派生したものではないからです。

 今まで見てきたように、BL俳句・短歌は、俳句や短歌の形式を持ちつつ、BLジャンルにもまたがって展開されました。「公共性に欠ける」という見方は、あくまでも言語芸術の内部から見た一側面であるということは、もっと注意されていいと思います。そして、言語芸術としての俳句の外側から見れば、これらで指摘されているBL俳句の特徴は、特別に奇妙なものではありません。

 例えば、久留島氏の指摘した「特殊な「個」へ(しか)届かない、届けようとしない表現行為」を求めること、つまり、テクストと自分とで一対一の関係を結び、意味を見出そうとすることは、現代人がテクストに向き合う姿勢としては奇異なものではなく、むしろ一般的ではないでしょうか。

 前田(一九六九)は、日本において近世から近代に移行する際、読書のあり方がどのように変質したのかを、印刷技術の発展と関連付けて論じています。前田氏は、読書とそれによる人格養成の過程において、近世期では漢文の素読に代表されるように、キャノン[xx]とされた書物を共に読み、共通の価値観を共有していたのに対し、近代においては、個人が自分の選択した書物に向き合い、独自の意味を見出し、自己の信念を形成するというあり方へ変化したと指摘しました。前田氏は、読書のあり方が変質した背景として、活版印刷による印刷物の流通量の増大と、テクストの享受方法が音読による共有から黙読による個人的な読書へと変化したことを挙げています。

 現代では、娯楽としての読書においても、黙読による個人的な享受という方法は深く根付いています。自ら選択した書物に個として向き合い、意味を見出すという方法は、現代の読書としては一般的でしょう。久留島氏のいう、BL俳句の読者の「「個」としての読者の「私」と、「個」である作品・作者の「私」との出逢いを、ドラマティックに盛り上げ、奇跡として語る」[xxi]という姿勢は、テクストに対して読者個人が自分にとっての意味を見出そうとしているという点で、近代読者的なあり方であると言えます。

 ここで重要なのは、BL短歌・俳句においては、そうした読み方を選択したということです。テクストに対するこうした姿勢は、BL俳句・短歌を作り読んでいる層には、結社や句会に参加したことがない人が多いという、いわば成員の未熟さによるものではないかという意見もあるかもしれません。しかし、むしろ、前章に引用した石原ユキオ氏の巻頭言に見られるように、ここではそうした読み方を修正するのではなく、推奨しています。

 藤本(二〇〇七)でも指摘されているように、BLそのものが「小さな私(個)」のためのジャンルでした。そもそも、公共性があるということは、普遍性があるということではありません。何をもって「公共性がある」とするかは、その共同体において形成された暗黙の了解が前提となります。そして、ある表現について「公共性がある」とするその了解は、しばしばその共同体のマジョリティにとっての「公共性」であることがあります。「小さな私(個)」とは、まさにその既に規定されていた「公共性」にそぐわない人々が自己を落ち着けざるを得ない場所ではないでしょうか。

 BLは、一般社会(つまり男性が優位である社会)に流布する物語において、女性表象が多くの場合限定的な役割で描かれているという状況の中、その状況に明確なカウンターとしての姿勢を打ち出すのではなく、女性表象を一旦隠し、男性の身体(あるいは少年愛における女性以外の身体)でもって選択肢を示すという方法で読者を獲得してきました。一般的な(「公共性」があるとされる)物語に締め出されてしまった人々は、相対的に「小さな私(個)」とならざるを得ません。そうした「小さな私(個)」の欲望を掬いとるためには、近代読者的な方法の方が相性がいいのです。

 BL短歌やBL俳句は、言語芸術とは別のルールを共有して生まれました。言語芸術の側の人々から指摘された、BL俳句における「公共性」の欠如は、別の面から見れば近代読者的なあり方だと言えます。それは、BLが「小さな私(個)」のためのジャンルだからこそ選択された方法です。

 

参加するということ

 BL俳句短歌の読者は近代読者に近いとするこの見方には、まだ問題があります。タグへの参加という側面が抜け落ちている、という点です。

 ツイッターでは、ハッシュタグ(#)機能によって、あるテーマにそった投稿をまとまった形で閲覧することができます。ユーザーは、投稿にタグをつけたりタグにそって閲覧したりして、そのテーマに参加することになります。

 #BL短歌や#BL俳句への参加に際し、明文化されたルールがあるわけではありません。「BL」と「俳句」という二つの言葉から、参加者はそれぞれの思うBLとそれに対する萌えを短歌や俳句の形にし、TLを見る・お気に入りにいれる・RTする等の形式で評価し、交換しあいます。

 ここにもテクストと読者の関係があるのですが、近代読者とは違い、この関係は一対一で閉じているわけではありません。投稿に対するリプライや、それらの俳句・短歌を基にした作品(「解凍」[xxii])等の様々な読みは、また別のユーザーがRTしたりリプライをつけたりすることによって作者―読者の一対一の関係の外側へと広がっていきます。#BL俳句や#BL短歌は、一方で個別の読みを求める近代読者的な享受方法をとりながら、他方でそれがテクストと読者のクローズドな関係に終始するのではなく、他の作者や読者(参加者)へも開かれている、という点に特徴があります。

 公共性、という言葉によってBL俳句を評価する時、真っ先に抜け落ちるのはタグへの参加の楽しみです。作ってTLに流してRTして鑑賞して……という一連の動作全て、つまり参加することそのものが、#BL俳句というものに含まれます。そうすることの楽しみも含めて#BL短歌や#BL俳句は存在しているのです。

 なぜ、『共有結晶』には「共有」という語が入っているのか。そして、なぜ『庫内灯』がそのように名付けられたのか。公共の対立項としての私の領域にこの運動を位置付けて見るとき、その理由と重要性は見えなくなります。

 庫内灯編集部の実駒氏は、『庫内灯』という命名について、自身のツイッターで以下のように述べています。

 

〔…〕真っ暗な台所で、おなかがすいてかなしい気持ちのまま冷蔵庫を開けたら、あたりがぱっと明るくなる、あの感じ 「庫内灯」が、手に取ってくださった方にとってそういう存在になれたらいいなあ[xxiii]

いつか、世界にひとりぼっちのような気持ちでいる遠くの誰かに「君はひとりじゃないよ」というメッセージを届ける灯台のようなものを書きたい、という長年の願いがすこし叶ったように思えてうれしい[xxiv]

 

 「自分以外の何かになる」に述べたように、BL俳句・BL短歌とは、そこを足場にして「それ以外」の関係性をもその領域に含めようとしてきました。それは、BLそのものが、「それ以外」、つまり、女性の身体を持つ「私」以外の可能性や、あるいは恋愛ものと言った時に落とし込まれる男女のロマンス以外の可能性を提示してきたからです。BLというジャンルが、まさに新しい可能性の存在が示されていた場所であったからこそ、『共有結晶』や『庫内灯』では、そこを足場として、そこから先へ飛躍しようとしていたのです。

 #BL俳句や#BL短歌は、そうした可能性を求める人々の存在を可視化し、自分に見えた可能性をお互いに交換することを可能にしました。あるいは、もっと単純に、そういう創作をしたいという気持ちを持つ人々がいること、同好の士がここにいるということを示して見せました。ツイッターというツールを使い、#BL短歌や#BL俳句は、「小さな私(個)」の領域に押し込められていた人々の再会の場の役割を果たしたのです。

 

さいごに

 BL短歌・俳句では、BLの「自分以外の何者かになる」という点が注目され、男性同士に限らない様々な関係性が詠(読)まれてきました。これらにおける「私」とは、作者本人ではなく、「切り離さざるを得なかった自分」や「自分の中に住み着いたキャラクター」としての他者です。それを読者として読む時、作品をその作者ではなく、自分の中の他者に引きつけて理解します。これは、言語芸術としての短歌や俳句とは別のあり方です。このあり方を「公共」の欠落として見、私的領域にBL短歌・俳句を位置付ける時、最も見過ごされやすいのは、参加の楽しみでしょう。

 さて、私にとって、BL短歌やBL俳句における一人称が作者の私とは別人である、ということは非常に重要です。なぜなら、私が決してなり得ないものについて、私は執着し、萌えを感じているからです。強く惹かれ合うという感情自体、他人に対して発生することは、私にはほとんどありません。その感情は、他者二人の間で発生するからこそリアリティを感じられるのです。

 さらに言えば、私にとっては「私」というものがすでに半ばフィクショナルなものなのです。だから、「フィクションを書くな、お前自身を書け」と言われた時、私は戸惑いを覚えます。

 BLを、男同士の恋愛を描くもの、というジャンル的な定義に沿って理解した場合、BL小説やBL俳句を書く私に対する「お前自身を書け」という批判は、女性である私を描け、ということでしょう。しかし、私にとって、私の身体、女の性別に紐づけられた私とは、生まれた時からすでに半ば社会の所有物であり、私の実感から離れて形成されたものなのです。私はいわゆるシス・ジェンダーであり、自分の性別そのものに違和感を持ったことはありません。しかし、社会によって名指される女としての私は半ばフィクショナルなものであり、私そのものではない。私はすでに、自分にとって一番近しい他者なのです。

 あるいは「お前自身を描け」とは、その「痛み」を書け、という意味なのかもしれません。BL「なんか」に「逃げ」ないで、他者として社会に奪われた自分の痛みを書け、と。けれども、わかってもらえるように自分の痛みを書くことにどんな価値があるのでしょうか。無論、女性であることの痛みを書く事は必要です[xxv]。また、対話を求める方に対しては、真摯に応えたいと思います。しかし、自らが評価する側にいると信じて疑わない人の言う、「なぜBLか、必然性はあるのか」という要請に答える義務はないと私は思います。なぜなら、BL短歌やBL俳句、あるいはBLは、評価したい側のためのものではないからです。

 なぜ、BLなのか。

 なぜなのでしょうか。一つ言えることは、それが私にとっては切実に必要だった、ということです。#BL短歌、#BL俳句という場所を目にしたとき、ここでなら生きられると思いました。というよりも、それまでに与えられてきた物語の中で、私は窮屈な思いをしていたということに初めて気づいたのです。だから、二〇一二年の、二〇一四年の、あるいは今の私にとって、ここは切実に、そこにあってほしいものなのです。

 

参考文献

朝日新聞出版社編『知恵蔵』「キャノン」(執筆者:井上健朝日新聞出版社、二〇〇七

岡井隆『現代短歌入門』講談社、一九九七

金田淳子やおい論、明日のためにその2。」『ユリイカ十二月臨時増刊号 総特集BLスタディーズ』青土社、二〇〇七、四八―五四ページ

永久保陽子『やおい小説論―女性のためのエロス表現―』専修大学出版局、二〇〇五

中島梓『コミュニケーション不全症候群』筑摩書房、一九九一

藤本由香里少年愛やおい・BL 二〇〇七年現在の視点から」『ユリイカ十二月臨時増刊号 総特集BLスタディーズ』青土社、二〇〇七、三六―四七ページ

前田愛「明治の読書生活」『言語生活』二一一号、筑摩書房、一九六九、一五―二三ページ

松村明編『大辞林』第三版、三省堂、二〇〇六

溝口彰子『BL進化論』太田出版、二〇一五

BL短歌合同誌実行委員会『共有結晶』vol.1、二〇一二

 ――――vol.2、二〇一三

 ――――vol.3、二〇一四

庫内灯編集部『庫内灯』一号、二〇一五

 ――――二号、二〇一六

佐々木紺「BL俳句」

 https://note.mu/sasakikon/n/n3ccfdca085d5?creator_urlname=sasakikon

久留島元「メモ:読みの「私性」について」

 http://sorori-teizakki.blogspot.jp/2016/09/blog-post_14.html

福田若之 「松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」に応えて」

 http://hw02.blogspot.jp/2016/09/bl.html

 

[i] https://note.mu/masainos/n/na5bd97f3b422

[ii] 「女性読者のために創作された、男性同性愛を題材にした漫画・小説などの俗称。」(『大辞林』第三版)より。

[iii] 金田(二〇〇七)、五三ページ

[iv] 小谷(二〇〇七)、三五ページ

[v] 藤本(二〇〇七)、四六ページ

[vi] 『共有結晶』vol.1創刊時は谷栖理衣名義。

[vii] 『共有結晶』vol.2、八四ページ

[viii] 『庫内灯』一号、一五二ページ

[ix] ただし、二〇一七年現在、「男女BL」という呼称に対する批判と対話を経て、「男女BL」そのものはかかり氏にとって克服されるべきものとなっている。

[x] 岡井隆『現代短歌入門』二〇一ページ

[xi] https://note.mu/sasakikon/n/n3ccfdca085d5

[xii] 『庫内灯』一号、二―三ページ

[xiii] 「萎え」とは「萌え」と逆の感情を表す表現。「俗に、興ざめすること。」(『大辞林』第三版)

[xiv] 「群青」「ku+」に参加。共著『俳コレ』(邑書林、二〇一二)。なお、福田氏は「公共性」のある俳句に対し懐疑的な立場をとっている。

[xv] 「松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」に応えて」http://hw02.blogspot.jp/2016/09/bl.html

[xvi] 前掲ウェブページ

[xvii] 前掲ウェブページ

[xviii] 「船団の会」会員。『庫内灯』編集委員でもある。

[xix] 「読みの私性について」『曾呂利亭雑記』http://sorori-tei-zakki.blogspot.jp/2016/09/blog-post_14.html

[xx] 教育機関等において、偉大な、学ぶに値するとして権威づけられた作品。(『知恵蔵』)

[xxi] 注[xxi]に同じ。

[xxii] 『共有結晶』vol.2特集。

[xxiii]https://twitter.com/mkm_/status/666195467080826880

[xxiv]https://twitter.com/mkm_/status/666196402666516480

[xxv] 『庫内灯』二号に掲載されたイサハヤ氏「私の犬」は、まさにBL愛好者が希求する「彼ら」になれなかった女性の痛みを描くものである。また、手前味噌で恐縮ながら、筆者も柳川麻衣氏編集の百合詞華集『君とダンスを』に寄稿した「君は」という短編で、女性を主人公に、個人的な体験を織り交ぜつつ小説を書いた(拙著『さまよえるベガ・君は』に再録)。