#Tokyo2020 について・その3または「どうでもよさ」に抗う

 今日からパラリンピックが始まるという。信じられないことに。

 東京をはじめとして、いくつかの自治体ではすでに医療のキャパシティが飽和している。陽性者数は5000人前後で推移しているが、これは検査数の上限に達したということだろう。診断されていない陽性者はもっと多いだろう。陽性率も20%前後と依然として高いままである。

都内の最新感染動向 | 東京都 新型コロナウイルス感染症対策サイト

 それなのに、パラリンピックをやる、という。

 オリンピックも本来はやるべきではなかった。より事態が逼迫している今、パラリンピックもできる状況にない。すでに関係者からも複数の陽性者が出ているし、医療のキャパシティもとっくに限界を超えている。

 それでも、首相や都知事、政治の意思決定に関わる人びとは、やる、という。別の世界に生きているのだろうか、と嫌味が出そうになるが、そうではない。

 同じ世界に生きているが、相手を(つまり我々を)どうでもいい、と思っているのだろう。

 

 パラリンピック開催及び学校連携の観戦について、小池都知事や橋本会長は、「教育的意義」「教育的価値」を挙げた。

小池都知事、パラ開催と“学校観戦”「きわめて教育的価値が高い」(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

 マイノリティに対して「自分たちの役に立てば仲間と認めてあげましょう」という日本社会の傲慢な「寛容さ」と、子供を一個の人格を持つ他者ではなく保護=支配するコマとしか見ていないくせに恥じない教育行政や大人たちの鈍感さがこのたった一言に凝縮されている。

(とはいえさすがに都の教育委員会は委員全員がパラ観戦に反対している。)

 「どうでもいい」のだ。パラアスリートにしろ子供にしろ、自分たちにとって都合のいい一面だけを見ている。その都合のいい部分だけの、薄っぺらな、書き割りみたいな存在だと思っている。それ以外はどうでもいい。

 その「どうでもいい」は、何も橋本会長や小池都知事に限った話ではない。コロナ禍の中で暮らす我々全員に対し、政治家による「どうでもいい」が向けられている。

 

 私たちは今、災害の真っ只中にいる。

 新型コロナウイルス感染症の流行、ここ一月ほどは医療のキャパシティが逼迫していて、もし怪我や病気になったとしても治療を受けられる保障はない。これが災害でなくて何だろうか。

 

 オリンピック開催の前の7月16日、また今月17日、野党から臨時国会招集の申し入れがあってから今まで、与党である自民党は、それに応じようとしない。

 理由は「閉会中審査があるから」だというが、閉会中審査は国会よりも短時間で終わる。

 また、この閉会中審査には、河野大臣や西村大臣、田村大臣の答弁のみで、首相は出席していない。野党からの出席要求に対し、自民党は応じていない。

臨時国会、いつまで拒否するのか 説明避ける菅政権 自民改憲草案に「20日以内召集」とあるけれど…:東京新聞 TOKYO Web

 一方で菅首相横浜市長選挙には、自民党が推薦する小此木氏の応援を行なっている。

 コロナ対策のためにと組まれたはずの補正予算は、30兆円が積み残されている。

30兆円超となった21年度予算への巨額の繰越金と追加経済対策 | 2021年 | 木内登英のGlobal Economy & Policy Insight | 野村総合研究所(NRI)

 

 新型コロナウイルス感染症は、

1、無症状者でも感染させる可能性がある。

2、感染者は指数関数的に増加していく。

 という性質がある。だから検査と隔離が重要で、実際制圧に成功している国(台湾やニュージーランド等)は、これを基本戦略としている。さらに、デルタ株はワクチン接種済みでも感染する可能性がある(重症化は防げる)ため、検査と隔離の重要性はさらに高まっている。

 前回のブログでも引用したスイスチーズモデルには、個人の責任と共に社会の責任が書かれている。このうち「政府による広報と資金援助」、「迅速かつ高感度な検査と追跡」、「外出制限と隔離」の三つが本邦のコロナウイルス対策に欠けていることがわかるだろう。

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スイスチーズモデル

引用元:

The Swiss Cheese Respiratory Virus Defence

 この三つは言ってどうにかなるものではない。例えば検査と追跡は保健所の責務であるが、職員の増加やPCR検査機の購入等の体制の強化には資金がいる。どこが出すべきか、と言えば、公的機関になるだろう。

 また、外出制限と言っても、出るなと言われて出ないでいられるわけではない。仕事をしなければ生活ができず、その「仕事」にはもちろんエンタメ業界を含め、多様な業態を含みうる。経済、もっと正確に言えば生活の維持の資金獲得と公衆衛生を天秤にかけたとき、前者を完全に諦められる人はそう多くない。結果として「気をつけて暮らす」「気をつけて営業する」という選択が今あちこちで取られている。が、本来なら生活と公衆衛生の間の対立を解消するのは、政府のはずなのだ。補償が重要なのは、それが温情だからではなく、必要かつ有効な戦略だからである。

 さらに言えば、「政府による広報」の部分では、オリンピックを強行することで、感染症の流行状況のシビアさとは反対のメッセージを出すことになった。結果として、「気をつけて暮らす」ことのモチベーションが保たれなくなっている。

 1点目と2点目については、「公衆衛生なんていう得にならないことに予算を割きたくない」ということだろうか、と思ってしまう。あるいは、「外国の(というより中国・韓国だろうか)真似をしたくない、日本モデルと言えるものがほしい」というプライドのためだろうか。いずれにせよせこい。国家予算は内閣のお小遣いではない。

 3点目は、前々回のブログに指摘したように、「オリンピックをやった」というトロフィーが欲しいのだろう。利益供与もたっぷりできる。費用は国家予算だから、政府中枢の人々の懐は痛まない。

 要するに、ここでは「新型の感染症から国の全員を守る」戦略ではなく、政策決定者の「やりたさ」「やりたくなさ」が優先されている。政府の「コロナウイルス対策」は、実質的には「対策がない」も同然である。うまく行くわけがない。

 政府の仕事は同調圧力に頼った「お願い」ではない。ましてや特定の職や世代に対する恫喝でもない。「感染防御」という目標に対し、社会がうまく動くような仕組みづくりである。仕組みづくりを怠っておきながら、思い通りにならないからと罰則や名前の公表等の懲罰ばかり行おうとするのは、意味がない上に無責任でもある。

 

 私たちは、スイスチーズモデルの壁のうち、「検査と隔離」と「適切な広報と援助」という、公的機関の果たすべき責任を欠いた状態で暮らしている。

 「ウィズコロナ」という言い方は、なされるべき「公助」を欠いているということを誤魔化すに過ぎない。戦略でも何でもない。

 公衆衛生は、あるいは社会保障のような「みんな」にとって重要な仕事は、ほとんど放置され、事態がのっぴきならなくなった時点でようやく手がつけられる、という形になっている。私たちの生活、命、健康は、政府の出した「対策」全体の中で、かなりどうでもいい扱いをされている。

 

 国会を開かない、というのは、向き合わないということだ。野党に対してではない。我々日本に住む全ての人に対して、そして、自らの政治の結果に対して、である。

 政治は、特に国家レベルの政治は、ここに住む全ての人を巻き込む。そして、菅内閣の政治の結果、長引くCOVID-19の流行と感染爆発を招いた。

 菅内閣はそれに向き合い、説明しなければならない。そして、これからどうするか、現状を見ながら決定するための議論を重ねなければならない。

 それが彼らの仕事だ。

 官邸の、つまりは身内の人々でより集まり、記者会見で一方的に自陣の見解を述べることは、「今の現状」に向き合うことではない。むしろ目を背けている。

 

 国会は、選挙によって選ばれた代表者の集う場である。そして、ここで話し合われたことは日本全体に関係しうる。だから、国会での答弁は、日本全体に対する答弁である。そのため、ここで行われる言語的コミュニケーションは、議事録に記録される。

 政治の言葉は単なる予定調和ではない。今がどうであるか、そしてこれからどうするか、という事実に対する認識の積み重ねの末に一つの決定を下すための、必要な手続きである。法律を作るなら、その正当性を証明しなければならないし、欠点が指摘されたなら、それに対して必要な対処を取らなければならない。

 国会での言葉、政治の言葉は、自分とは異なる他者に向き合い、他者に対して言葉を尽くして説明をするためにある。「野党」に対して、ではない。その背後にある、与野党を含め、様々な人格・人生・利害関係を持つ、様々な他者、すなわちこの国に暮らす全員に対してである。

 そしてまた、そうした過程が公表され、公的に記録されるということは、手続きの正当性を、主権者である国民に対して説明することであり、「正当性への努力」を見せることによって、政治に対する信頼関係を築くことでもある。

 安倍内閣から菅内閣にかけて、政治の言葉を意図的に空虚にすることで、「今がどうであるか」「これからどうするか」ということ、それに向き合うということをくちゃくちゃに壊して来た。今度は、その場すら開かないと言う。

 国会を開かないということは、野党に対してではなく、この国に住む全員に対する、全ての業務上の責任を放棄しているということだ。「どうでもいい」、と。

 

 先日知って重苦しい気持ちになった事実がある。新型コロナウイルス感染症の国内死者数は、1万5000人を超えた。

 そして、十年前の東日本大震災の、震災当時の死者数は、1万5899人だ(警察庁発表)。

 あまり単純に数を出すべきでないのかもしれない。単なる数の問題でもないとも思う。けれども、私たちは今、それくらい大きな災害に襲われている。

 そしてそれは、突然来た地震と違い、避け得たかもしれないのだ。スイスチーズモデルの三枚の防壁、「政府による広報と資金援助」、「迅速かつ高感度な検査と追跡」、「外出制限と隔離」があったならば。

 

 私たちは災害の中にいて、政治の意思決定者によって「どうでもいい」と思われている。

 「どうでもよさ」によって、政府の対策は後手後手に回り、感染の流行は長引き、いたずらに拡大した。

 そのことを肯定しなければならない義理は一つもない。 

 この「どうでもよさ」に対して、私たちは抗わなければならないと思う。