#Tokyo2020 について

 東京オリンピックの開会式が始まるらしい。今もって信じられない。始まる前から何もかもがしっちゃかめっちゃかだし、全く筋が通っていないのでそれだけでパニックになりそうだが、綺麗な海とかを思い浮かべて気持ちを落ち着けている。

 

 競技は競技だ、それはそれとして応援しよう、というのは本当だろうか。東京へは去年以来一年以上行っていないが、それでも私は東京で起こっていることを、「自分が暮らす国で起こっていること」として、ある種のリアリティを持って受け止めている。オリンピックの会場はその中にあって、会場だけがどこか別の場所に、東京や日本から切り離されてぷかぷか浮いているわけではない。地続きなのだから「それはそれ」とできない。

 それに、オリンピック競技大会は、ものすごい額の公金を投入される「国家的イベント」だという。であれば、今、この国がどういう状況なのか、という文脈と切り離して考えることは不適当だろう。

 

 ひとまず最近のニュース、それもCOVID-19に限って見ても、東京の感染者数は1000人を超え、2000人に迫る勢いである。

 これは、6月11日に発表された試算よりもはるかに早いペースだ。

(参考 https://www.tokyo-np.co.jp/article/110157

 今がピークではない。今この状況に向き合い、対策を打たなければ、今後どんどん状況が悪くなることは目に見えている。

 

 ここで一つの対立が起こる。私のようにオリンピックを中止してほしい、という人間と、オリンピックをやってほしい、という人間だ。あるいは、もうここまで来たらやるしかない、中止にすればそれはそれで様々な問題が起こる、という人間。

 

 しかし、この対立はどこから来ているのだろうか。

 ここで対立をもたらす主要な要因となっているのは、COVID-19の流行の状況である。感染症の流行はまだ下火になっておらず、それどころか第五波が訪れている。

 なぜこんなことになったのか、ということを考えた時に、「政府の不在」に行き当たるのである。

 

 菅首相は、「安心、安全なオリンピック」という言葉をスローガン的に繰り返し、感染対策を徹底する、と言う(例えば https://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/actions/202107/16olympic.html)。しかし、「安心、安全なオリンピック」を実現するために何をするのか、という具体的な内容は薄く、感染対策の徹底も、空港検疫や選手や関係者の移動等の実態を見れば、机上の空論であったことが露呈している。

 

 つまり、菅首相が繰り返す「安心、安全なオリンピック」というのは、具体的な方策を伴って実現の努力がなされているものではない。特にそういうものはなされていないが、そこに目をつぶって「安心しろ」と私たちに強いられているものだ。ここで、私の不安や具体策を知りたいという要望は無視されている。

 本来なら、首相及び政府は、口頭でスローガンを繰り返すだけでなく、きちんと具体的な策を立てて検討をするべきである。もちろん、どう対応しても万全ということはない。だからそれも含めて対策を立てなければならない。それがホスト国の政府の仕事だ。だから、ここでは、政府の職責ということも無視されている。

 

 「安心、安全なオリンピック」のためには、大会内だけでなく、その外、つまり私たちの生活において、感染症の心配がない状態であることが必要だ。しかし、日本の感染症対策は十分でない。というか、「感染症対策」としては、なんだか漫然としている。人流を抑えるための要請と、それに対する補償だが、補償が十分であるとは言い難い。人流抑制も「八時以降」と中途半端である。だから感染症の流行も、何度も繰り返す。繰り返すたびに、私たちは経済的・精神的にじりじり疲弊していく。

 もちろん、市井に暮らす我々がしっかり協力することは必要だ。だが、その協力を十分に得て、生かすほどの政策が、今、日本で出されているだろうか。人が出れば接触が増える。しかし、働かねば生きていけない。それに、人は労働だけで生きていけるわけではない。何かしら楽しみがなければ心が死んでいく。今までの政府の対策は、こうした「生きた人間」を相手にした政策であると言えるだろうか。

 

 今日の感染者数は、ただその数になったのではない。政府が適切に物事を評価し、方針を決め、政策を決定するということをしなかった、その結果としてその数になったのだ。

(なお、政府の怠惰に対して「緊急事態条項がないから」つまり憲法の制限によるものだという意見があるが、それは違う。自民党改憲草案にある緊急事態条項がなかなかにやばい内容である、という問題もあるが(参考 https://note.com/horishinb/n/n6879ab317939)、それに加えて、そういうクリシェを繰り返すことで、やらないことを正当化して全てを駄目にしてきた、その結果が今だと思うからだ。)

 

 日本には政府がいない。ここで言う政府とは、「日本」という共同体の運営の委託者として、大きな物事に直面したときに、様々な意見や事象を勘案し、責任を持って判断を下し、その責任を取る存在のことだ。そういう人々が今の日本にはいない。そういう日本にしてしまったのである。

 

 COVID-19の国内流行からオリンピック開会式の今日まで、政府の意思決定の権力を握る人々の「やりたい気持ち」「やりたくない気持ち」によって、色々なものが無視されて、押しつぶされてきた。オリンピックの開催はその果てにある。

 だから、「オリンピック」の名の下で行われている競技、感情の動き、メダル、パフォーマンス、全てこの文脈の中で、この文脈を引きずって存在している。

 

 

 

 新型感染症の世界的な流行、という事態は確かに誰にも予測不可能だった。その後も変異株の出現等、難しい状況が続いている。新型ウイルスに世界中が巻き込まれている。

 しかし、この国の意思決定層は、つまり「オリンピックをやる」と決めた人々、そして今、この瞬間までの間に、国の方策に決定を下してきた人々は、その難しい事態に「巻き込まれている」と言えるほど、真剣に向き合ってきただろうか。

 

 自分は、オリンピックがやりたいのなら、どうして何がなんでも感染症を抑える、という方向に行かないのだろうかと不思議に思っていた。どうして様々な試算、専門家の知見、新しい情報、市井の人々の協力をドブに捨てるようなことを繰り返すのだろうと思っていた。それではオリンピックができなくなるではないか、と。でも、その考えは間違っていた。彼らは皆が楽しめるイベントとしてのオリンピックがやりたいのではない。

 意思決定の場にいる人々は、オリンピック憲章の理念に共感したのではないし、それを実現しようとしているのでもない。「みんなのオリンピック」をやりたいわけでもない。「オリンピックをやった」というトロフィーがほしいのだ。

 オリンピックというショーがどんなにめちゃくちゃな状況で行われていようと、やればトロフィーが獲得できる。だから別に、感染が収まっていないどころかどんどん拡大していようと、市民の不安が解消されていなかろうと、あるいは当初掲げた「復興五輪」の「復興」の部分が名目に堕していようと、開催できればそれでいい。開催すれば「オリンピックをやった」というトロフィーが獲得できる。

 

 しかし「オリンピックやった」のトロフィー獲得イベントは、ゲームの中のイベントではない。現実に、色々なものを巻き込みながら進んでいっている。現実に暮らす私たちには生活があり、命がある。意思があって人格がある。オリンピックを楽しむのも、引き裂かれつつ応援するのも、見たくないと拒絶するのも、この国で生活する私たちだ。

 だから、競技と今は切り離せない。政治と生活も地続きだ。私たちは、それにすでにぐちゃぐちゃに巻き込まれている。今生きている現実を「切り離す」ことはできない。巻き込まれていることを無視するか、向き合うか、そのどちらかだ。

文芸アドベントカレンダー20201214

miyayukiさん(@miyayuki777)主催の文芸アドベントカレンダー2020、12月14日担当の正井です。

adventar.org

 近年は隙あらば吉田知子をおすすめする生活を送っているのでここでも紹介する。

 吉田知子は1970年の芥川賞を受賞した作家で、作風は幻想(時々ホラー寄り)に分類される。というか私が勝手に分類している。吉田知子の作品を読むと、いつのまにかとんでもない場所に連れて行かれている。いつそうなったのか分からない。最初からそうだったのかもしれない。しかし、その状態は不思議と安寧である。

 ホラーは日常から異界への越境を描くものであるが、吉田知子の作品は、その境界線がゆらゆらと曖昧で、日常もよく見ればなんだかズレている。どこかで道を間違ったようだが、最初から間違っていたのかもしれない。だったらいいかあ、とゆやゆよと境界の揺らめく世界を受け入れている。

 

 短編が中心の作家であるので一冊から気軽に読める。おすすめは景文館書店の『吉田知子選集1 脳天壊了』である。ホラーがお好きなら講談社文芸文庫版『お供え』も楽しめると思う。

keibunkan.jimdofree.com

www.hanmoto.com

 

 隙あらば、と言えばドストエフスキーもおすすめしているのだが、長さがネックとなってなかなか手にとってもらえない。そこで、まず身近な友人に読んでもらうためにドストエフスキー紹介パンフレットを自作し、『罪と罰』と共に手渡した。巻末のあいうえお順人名表が好評であった。今は『悪霊』を渡している。

www.dropbox.com

www.dropbox.com

 

 『掃除婦のための手引書』は誕生日プレゼントにもらった。一行目から好きを確信できる作品集であった。友人の目利きにうなった。

 学校での失敗、アル中のデトックス、末期ガンの妹、母の記憶、離婚、引っ越し、絶交。決して順調とは言えない人生の断片をこんなにもすっきりと歯切れのよい言葉で述べていた人がいたことに驚く。今年は色々とキューなことが多かったが(キューは不思議惑星キン・ザ・ザにおける罵倒語)何とか自分の生活を保とうとする時にこの短編集があったことがどれほどたのもしかったか。

www.hanmoto.com

www.pan-dora.co.jp

 

 最後に紹介するのは文芸と言いつつラジオである。「犬街ラジオ」と言う。毎週水曜21時から22時半まで、ツイキャスで配信されている。ラジオ局の配信するプログラムではなく、いわゆるアマチュアのウェブ配信である。

twitcasting.tv

 ラジオで言うパーソナリティは三人。

 島売りであり朗読パフォーマーであり大阪は庄内のギャラリー「犬と街灯」の店主・谷脇クリタさん。

 第22回ファンタジーノベル大賞受賞のSF作家・北野勇作さん。

 オンラインの短編コンテストブンゲイファイトクラブの今年の優勝者・蜂本みささん。

 この三人が一時間半、怪獣や昆虫や街で見かけたものについておしゃべりをするのだが、毎週一人一編ずつ朗読を披露する。

 

 お三方の朗読のうち、私のおすすめを以下に貼っておく。

 まず、谷脇クリタさんの「こどもの証」。明石生まれの子どもだけがアクセスできる「明石っ子レコード」についての物語だ。スピーカーを通して聞こえる登場人物の関西のイントネーションと、語り手の独白が、未来からの伝言のようなどこか寂しくて奇妙にノスタルジックな空間を作り出している。

犬街ラジオ#13 36:55〜

twitcasting.tv

他、谷脇クリタさんのnoteでも朗読が公開されている。

note.com

 北野勇作さんの「グリコ」は著作『ウニバーサル・スタジオ』からの一編である。大阪のようで大阪でない、いつかのどこかの大阪での巨人の活躍と暴走。北野さんの声は朗々として説得力があり、その声で語られるヘンテコリンな創生神話はあり得そうであり得なくておもしろい。

犬街ラジオ#7 8:40〜

twitcasting.tv

https://www.amazon.co.jp/ウニバーサル・スタジオ-ハヤカワ文庫JA-北野-勇作/dp/4150308985

 蜂本みささんの「あるまじろ」は第1回の犬と街灯ラジオで読まれた。こちらも関西弁で、友達と雑談しているような調子で始まるのだが、ふと不穏な気配を感じたと思ったら一瞬で景色の塗り替わる迫力を味わっていただきたい。

犬街ラジオ#1 35:40〜

twitcasting.tv

テキスト版も公開されている。でも、あの衝撃、声で味わってほしいと思うのである。

note.com

 

 朗読は面白い。対面で聞いたのは数えるほどの私が批評めいたことを言うのもおかしいが、お三方とも大変上手い。

 それに加えて、たぶんウェブラジオ形式独特のよさ、というのがあって、ふつうの雑談と真剣な朗読の中間にあるような、気の張らない声が心地よい。私はこれを、寝る前のストレッチの時間に少しずつ聞いて一週間を過ごしている。

 文芸アドベントカレンダー、明日の担当は出藍文庫さんです。